アグネス・チャン

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【 2007年11月24日放送】【2時間SP】パート2

今日のゲストは、香港出身の70年代のアイドル歌手で、日本ユニセフ協会大使など幅広く活躍されているアグネス・チャンさん。

パート1からの続きです♪

~優秀な姉達と比較されコンプレックスに悩むアグネスさんを
いつもかばってくれたのが父のソイトンさんでした
しかし、留学して間もなく父は帰らぬ人となりました~

[早過ぎる父の死]
国分「カナダに留学しているときに、お父さんは亡くなったんですか?」
アグネス「そうです。働き始めたら、ほとんどお父さんとしゃべる時間もなければ 一緒に過ごす時間もない。
父は私が絶対に芸能界に向いていないと思ったのに 本当に反対されたのに、 歌を歌ったんですね。
だからもうちょっと話をしておけばよかったとか
『お父さん、一番大好き』と一度は言ってあげたかったんですよ。」
江原「でも、言っているようなものじゃないですか。
それに、お父さん自身がおっしゃるけれども、
アグネスさんはお父さんと性格も 一番似ているんですよ。
だから心がいつも通い合っているようなもので この子が何を考えているか、 全部わかるって。」
アグネス「へえ。」
江原「ただ絶対に、もう二度と後悔して欲しくないのは
『お父さんの最期を看取れなかった』ということだけは捨てなさいって。
そういう風に後悔しないこと。
だから『自分がもっとお父さんに恩返ししてからでないといけなかった』ということを あなたは言うけれども、
そんなことは関係ないし。姉妹の中でも考え方が一番似ている。
だから可愛いというのは、それを全部汲んだ上で言っているの。」
国分「お父さんに最期、会えなかったということを自分の中では後悔というか。」
アグネス「父が亡くなって、母が言ったのは。兄弟も言っていたけれど、
『私がカナダに行かなければ、父は死んでいなかった』って言ったんですね。
それは生活環境が変わったり、しかも母が私に逢いにカナダに行っている間に
父は胆石の手術を受けて、それが失敗して亡くなったんですよね。
だから母もすごく責任を感じたし、やっぱり私がカナダに行かなければ
もっと生きられたのかなって。」
江原「全然、関係ない。」
美輪「それは関係ないですよ。」
江原「お父さんは、家族みんな、身内を全部含めて、それぞれの生活、生き方、
目鼻立ちをつけたから、悔いなく死ぬことができたって。
だから例えば、アグネスさんが芸能界に残ったままだったら、悔いが残った。
学校も将来の道をつけたし、これで一通りみんなの道をつけたから、逆によかった
それより前だって働きっぱなしの人生ですよ。
とにもかくにも家族のためだけに生きた人ですよ。
お金だって、道楽とか贅沢とかってないでしょう?」
アグネス「そうですね。」
江原「みんなと一緒ににこにことご飯を食べるくらいじゃないですか。」
アグネス「そう、ご飯を食べたら、また仕事に行くんですよ。2つも3つも仕事をやっていたし
そのぐらい、やはり家族のために努力してきたんですよ。」

~父を亡くした後、日本の芸能界に復帰したアグネスさん。
人生の転機となったのはある番組への出演でした
1985年、24時間テレビの総合司会となり、自らレポーターとして
エチオピアの難民キャンプを訪れたのです
そこで目にしたのが子供たちが次々と倒れて行く悲しい現実でした。
涙にくれるアグネスさんを厳しく叱る女性がいました。
キャンプを支える活動家・徳永瑞子(みずこ)さんとの出会いでした~

[エチオピア難民を取材して]
国分「人生の転機が、1985年にエチオピアに行ったときと。」
アグネス「はい。ちょうどその年、24時間テレビの総合司会として選ばれて。
85年のときはちょうどエチオピアが干ばつと内戦で何百万人も死んでいたという話で。
そこで同じ世界でこんな悲惨な状況があっていいのかと。
最初、着いたときは、ただもうショックですよ。
本当に骨と皮しかないみたいな方がいっぱいさまよっていて、
子ども達もみんな 太ももなんか私の3本か4本の指くらいしかなかったの。
だから最初は病気がうつるから、『絶対に触っちゃいけない』と言われたんですよ。
でも、キャンプに着いて、私は現地の言葉で作った替え歌を歌ったんですね
私は言葉ができないから。(ロンドン橋落ちたのメロディ)そうしたら、
今にも倒れそうな子がみんな立ち上がって現地の踊り、スクスタ?って踊りだけど
踊り出したんですよ。
もう、その時の可愛らしさね、言葉で表すことはできないんですけど
もう、ここで病気がうつったらそれはしょうがない、
もうここで死んだら、それは本望だなと思って、子供たちを抱き上げたり、頬ずりしたり
ああ、この子と死んでもかまわないと思った瞬間
その瞬間に人生が変わったかなと思った、私。もう、幸せが、いーっぱいになっちゃったの。
もう、何もいらないぐらい、幸せ一杯になっちゃったんですよ。
そこで、私、日本の女性に逢って。徳永さんという看護師さんなんですけど
彼女はほとんど一人でそのキャンプを作った人なんですよ、まだ若い方なんですけど。」
太「へえ~。」

[徳永さんの教え]
アグネス「それで、子どもが死んでいきますよね。
ある日、自分達が直接担当した子が亡くなって埋められたんですよ。
私が行って、もう6人目か7人目、そうしたら
とうとうご飯が食べられなくなっちゃって、私もう、辛すぎて
初めてだから、そういう体験が。
それで、徳永さんに怒られた言葉が
『あなたがご飯を食べないと、私たちの面倒になるのよ。
もう手一杯だから、何をしに来たんだ』と。
私は理屈を並べたんですよ。
『食べて、余って、捨てちゃう国がある。食べられないで、飢えて死んでゆく国がある。
これは地球の病気だから治りません』と言ったら『ストップ!』と言われて。
『理屈は誰もが言えるんですよ。
あなた、本当に少しでも子ども達に申し訳ない気持ちがあったら、
与えられている役目を果たしなさいよ。
これをしっかりと自分の目で見て、日本に帰って助けを求めるんでしょう?
それをちゃんと果たしなさいよ』 と言われて。
あれで、ガーンときましたね、私だから、そうか!と思って。
要するに 具体的に行動しなさいよということが言いたかったんですよね。」

美輪「だから情緒的に、泣いたり、わめいたり、同情したりということはいらないというのね。
それよりも『どうやって助けるか』それがまず、第一の目的だったのよ。」
アグネス「そうそう。
『もう、涙はいらない。理屈をつけてこうだ、ああだ、というのも聞きたくない。
あなたは本当に何かがしたいんだったら、体を運びなさい』と。」
江原「それはアグネスさんも尊敬するマザー・テレサも同じことを言うでしょう?
『自分はどうしたらいいのか?』と言ったら
『来ればいい。そうすれば自然に手が動くんだ』っておっしゃいましたでしょう?
同じですよ。」
アグネス「現場で働いている方は、みんな同じ思いなんですよね。」
(マザーテレサ(1910~1997)カトリックの修道女。  インドのコルカタで貧しい人々を救済。1979年ノーベル平和賞受賞)

しあわせを見つけるマザー・テレサ26の愛の言葉

~『子ども達を助けたいなら、理屈は要らない。体を動かしなさい』。
徳永さんの教えを守り、アグネスさんは行動を始めるのです
1998年、日本ユニセフ協会大使に就任したアグネスさん。
今も気に掛かるのは、世界の子供達の為に活動する娘の姿を見ることなく
亡くなった父の事でした~

楽屋でのインタビューにて
「いつも自分が何か結論出す時にはお父さんが、応援してくれそうなほうを選んで来たんですね。だけど、本当にそれでよかったのかな、と。」

【スピリチュアル・メッセージ】
国分「メッセージの方は今日はどんなものが?」
江原「お父さんは片時も心を離れていない。ただ、お父さんの御姿は、お若いときの姿。」
アグネス「50いくつのときしか、思い出せないですね。」
江原「若いから当然なんだけど、すごくハンサムな人。
アグネスさんの今の活動は、お父さんの願いでもある。
お父さんは自分の家族のために生きたでしょう?
それは自分自身の身近にいて助けなくてはいけない人だったから、というだけなんですよ。
自分や自分の家族に余裕があったら、今度はそれ以外の人に対してやったはずなんです、 お父さんは。
今、いろんな国に行かれて活動されている、それはお父さんの延長線、
お父さんからリレーでバトンが渡ったみたいな感じがあるから、こう言っているの
『誇りだ』って。
それまで小さいときから、自信がないとか、お姉さんとは違うとか
そういう風に思っていたけれど、『アグネスさんは誇りなんだ』っていうことを
お父さんが一番、言っているんです。
だから、どんなに見かけがいいとか、学位を持っているとかいうよりも、
その『今の心と活動の実践』がお父さんの誇り。
お母さんから言われながらもお父さんはどんなときにもグッと耐えて その中でもやっていたでしょう?
すべてはその場で賛美されたりすることじゃなくて、
自分でやることを とにかくコツコツやって、後になればわかる。
お父さんは自己弁護みたいなことは一切言わない。
そういった意味では、今のアグネスさんの今までの流れを見ていても『誇り』だと。」

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