黒沢年雄

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【 2007年06月09日放送】【100回】パート2

今日のゲストは、俳優で、歌手でもあり、「時には娼婦のように。」のヒット曲もある黒沢年雄(黒沢年男)さん。(200年に黒沢年男から黒沢年雄へ改名されます。)

パート1からの続きです♪

BEST GUY<ベストガイ>

[母を亡くして]
国分「まず人生の転機が。お母さんが亡くなった時。」
黒沢「そうですね。最初、僕、野球の選手になりたくて、
ずっとがんばってきて。長男ですから。
おふくろが、まあいろんな内職しながら、ずいぶんがんばってきて。
それで、まあ僕、多分16か17だと思うんだけど 
病院の院長が『長男を呼んでくれ』と言ったので、行ったんです。
『お母さんは3ヵ月もつか、半年もつかわからない』と。
肉腫、今でいうガンなんですよ。
最期はもう、しゃべれない、…動けない。
家族全員が病室から出されたときに、僕が一番最後に出て行こうとしたら、
おふくろが止めんだよね、手で。で、こっちのそで持ってね。で『何だよ』って言ったら。
『年男…頼むよ』って言ったんだ。これが最期の言葉ですよ。
僕の人生で、これは強烈だったですね。」
国分「『頼むよ』と。」

黒沢「長男だから、下に弟が3人いるから、負けちゃいけない、っていうね。
そのあとグレかかったり、いろんなことはあったけれども、
そちらの道には行かないで一生懸命、 俳優の道を選んだのはおふくろのおかげですよね。」

国分「何かの節目だったり、悪い方に行きそうになったときには、そのお母さんの言葉が・・・。」
黒沢「出てきますね。不思議とミシンの音と『年男、頼むよ』というのが、 パッと出てくるんですよ。
ミシンを夜中まで踏んで、毎日内職をしていましたから
それがこびりついているわけです。」

国分「あの失礼ですけども、お母さんは、おいくつの頃亡くなったんですか?」
黒沢「40。そりゃあかわいそうですよ。朝起きたら、火をおこしてご飯を炊いて、
たらいと洗濯板で洗濯して、今度は昼飯でしょ。
昼飯のあとは洗濯ものを取り込んで、今度は夕飯。何の楽しみもなくて。かわいそうですよね。」

~1日中、家事と内職に追われながら文句一つ言わなかった母。
家族のためにだけ生きた母は、黒沢さんが16歳の時、この世を去りました
長男として兄弟の面倒を見る立場になった黒沢さん。
しかし波乱の人生は、まだ始まったばかりでした~

国分「その後、役者を目指そうと。」
黒沢「役者を目指そうとはしなかったんだけどね。ちょっと、やっぱグレたんだね。
毎日毎日ね。伊勢佐木町って横浜ですから。
で、悪い仲間に入って。ま、そういう事したんだけど。
ほんとの悪い事はしなかったね。
“おふくろ”ってのが出てくるから。
それでこんな事してちゃいけない、ていうんで。
夢を持たなきゃいけないってんで、映画俳優になろうと思ったの。
大体、おっちょこちょいですから、僕。
非常に、みなを楽しませるのが好きなんですよ。」
国分「ええ、ええ。」
黒沢「子どもの頃から。それで、野球、映画俳優になろうと思ったけど。
そういう学校入るお金がないから。
俳優さんてのはいろんな職業、経験、体験すれば。役に立つだろうと思って。
2年半ぐらいの間に30ぐらいやりましたよ。」

国分「仕事を。どんな仕事をやったんですか?」
黒沢「だから最初、車のセールスマンやったんですけど、
車が売れないんですよ。乗ってる人いないから、しょうがないからね。
車とミシンと保険と、ベッドと避妊具をやったんですよ。」
国分「はい。それいっぺんにですか?」
黒沢「車いらないよ、と言われたら、ミシンがあるんですけど。
ミシンもいらないっていわれたら、ベッドがあるんです、って。
これはおもしろい子だということで、ポツポツ売れるようになって。
夜はキャバレーのボーイ、朝までバーテン。結構いろいろなことをやりました。
死体洗いとか。」
国分「ええ?死体洗い?」
黒沢「これがお金になるんですよ。
これはもう2日ぐらいで辞めました。匂いがこびりついちゃうんです。」
美輪「ああ、そうでしょうね。」
国分「そんな仕事あるんですか?」
黒沢「あるんですよ。当時の朝鮮戦争ってのかな。
その時にね、死体が来るんです。」
国分「おいくつの頃ですか、その仕事してたのは。」
黒沢「波乱万丈でね。大体ね16からね19の頭まで
もう何やってるんだか、50年間ぐらい、生きちゃったから
3年の間に。」
美輪「役者さんにおなりになったときに楽ですね。どんな役だってこなせるんですもの。」
黒沢「イメージがわくんです。」

~初めて主演した映画『ひき逃げ』で、エランドール賞を受賞。
正に順風満帆の映画人生をスタートした黒沢さん。
しかし、映画界は大きな転機を迎えていました~

[スターからの転落]
黒沢「映画がだんだん下火になりましてね。テレビが台頭してきましたから。
お客さんがどんどんテレビの方にいって、映画がダメになって。
五社協定というのがあって、東宝、東映、大映、日活、松竹、
松竹や東宝の俳優さんは日活に出ちゃいけない。
専属契約で、作品はいっぱいあったから。
でも映画がダメになって、俳優さん全員が専属契約を解除されたんです。
僕らは路頭に迷うわけですよ、何をしていいかわからない。その頃がきつかったですね。」

国分「フリーみたいなものですか?」
黒沢「全部フリーです。事務所もない、何もない。27、8歳の頃ですね。
それで、他社の映画のチョイ役に出るんですよ。
こんなもんじゃ俺は終わらないぞ、と自分に言い聞かせて。」
美輪「黒沢さんだけじゃなくて、皆さん大変でしたねえ、その当時。映画界全体がね。」

国分「美輪さんがおっしゃったように、うまくいったらドーンと下がっている感じがしますね。」
美輪「それでまた這い上がっていくの。そしてまたドドーンと。」
国分「『こんなもんじゃないぞ』というのを目標にして、どんどんとまた・・・。」
黒沢「そういう風に思っていたら、たまたま優秀な、音楽をやっているディレクターに 見初められてね
当たったんです、『やすらぎ』(1975年)っていう歌が。
そしてその3年後に、また『時には娼婦のように』って歌がドーン!とヒットしたんです。」
(「時には娼婦のように。」(1978年) 作詞・作曲/なかにし礼)

ヒット曲に恵まれ、歌手として再びスターの座に返り咲いた黒沢さん。
ドラマ、ザ・ハングマンの主役に起用され、芸能生活の第二のピークを迎えました。
しかし、次の試練が訪れます~

[豪邸を建てたら災いが…]
黒沢「ハングマンっていうのを主役でやってる頃で。
それを今度、1作目2作目…3作目かなんかに
今度、主役交代で。僕が降ろされたの。
それからまたどん底に入っちゃうんですよ。」
国分「それは何か言われるんですか、降ろされるとか。」
黒沢「違う、急にきますから。という事はね
そこ引っ越したのが良くなかったのね。」

黒沢「たまたま占い師さんに聞いたら『そこに行っちゃいけない』と。
僕の一番嫌な方向に行けと言われて、『嫌だ』と。
破竹の勢いだったから、何をやってもうまくいく。そんなことはありえない、と。
大好きな土地があったから。
そこの地主のおじいさんに毎日ね、お菓子持ってたり酒持ってたりしてね。
それで半年ぐらいかかって説き伏して、その土地を買ったの。 買って、豪邸を建てたの
建てたと同時に『ハングマン』降ろされたの。」
美輪「ははは。みんなそうなのよ。私もそうだったんだから。
国分「え、何が?その土地の部分とかですか?」
美輪「いやいや。方角ね。 『そっち行っちゃいけない』って言われてね。
風水、気学、そんなもんくそくらえだ。
私の運の方が強いんだよって。行って、これ2回やっちゃったのよ。
それで、ドーン!と落ちたの
やはり『いけない』と言われたことはやらない方がいい。」

黒沢「僕の土地からは遺跡が出ちゃって、古代、縄文、弥生・・・。
富士山の噴火のあとから人が住んでいなくて、畑だったんです。
その土地を手に入れて、ダメになって、病気になった。最悪ですよ。」
国分「その病気っていうのはガン。」
黒沢「ガン。」
国分「ですか?」
黒沢「内視鏡で見たらもう、先っぽが真っ黒なんだ。
これはやばいと思いましたね。
それから何日かは大変だったですよね。
でも、それも転移してなかった。
もう幸運ですね。

~手術も成功、健康を取り戻した黒沢さん。
しかし今度救われるためには新たな学びが必要でした~

[ガンから再出発]
黒沢「結婚して、子供もできて、家も作った。
『よし、これからはいい大人になろう。いい社会人になろう』
頭のいい人に見せようと思ったんですよ。」
国分「頭のいい人に見せよう。」
黒沢「それが逆でしたね。ドーンと落ちました。」
国分「ああ。」
黒沢「それでよーく考えました。娘の一言とか。色々あるんですけどね。
たまたま、その時にね。
どんな仕事でもね、やらないと食えないから。比叡山に行って対談した時にね。
その伝道大師、最澄(さいちょう)様がいろんな修行なさいましたけど。」
(最澄 767~822 …平安時代の僧。日本の天台宗の開祖)
黒沢「その教えの中に『大愚のすすめ』というのがあるんです。
どういうことかというと
『人間はいかに大馬鹿になれるか。そうすると人生が拓けてくる』っていうの

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