小林幸子
【 2007年08月04日放送】【105回】パート2
今日のゲストは、幼い時から歌手で、演歌界の女王と呼ばれる小林幸子さん。
パート1からの続きです♪
[15歳で家族を支える]
小林「私デビューが昭和39年、東京オリンピックのあった年だったんですけれども。
その39年で新潟の、大地震が1回目の大地震があったんです。
39年に大っきな地震が。
で、この間も中越地震、ありましたけども。
その地震で小林精肉店は、もうダメになったんですね。」
(地震で実家の小林精肉店は倒壊。)
美輪「うん。」
小林「それで私が15歳の時に、じゃあ、もうここにいないで
幸子のいる東京に行こう、って事で。
うちの一家、つまり両親と姉二人で住んだんですけども。
生活するのに生活費がないんですよ。どうしよう?」
美輪「生活費を生み出す手段がないんですもんね。」
小林「その15のときに生活費をどうしようかということで、
ある人が
『さっちゃん、こういう仕事があるよ』って言って。
昔は、ナイトクラブとかキャバレーとか8時とか9時とかにステージがあって
お客さまの前でバンドさんがいて、そこで歌うと
その日に取っ払いというお金をもらうんですよね。
それで生活費を稼いだ。
だから勤労少女みたいな感じでずっと働いていた。
でも、それは15なんです
労働基準法に引っかかるから、
18とごまかして上のまつ毛と下のまつ毛をくっ付けて
お化粧も思いっ切りして、シャドウをつけて仕事をもらって
生活費や家賃や全部をそれでやってきたんですね。」
~家族を支える為、年をごまかし夜のステージに立った小林さん。
それは、ご両親にとっても辛い試練の日々でした~
美輪「でもご両親の気持ちもお辛かったでしょうね。」
小林「そうですね。私もそうだったかもしれないけれど
それを見ていた両親の方が辛かったんだと。」
美輪「ましてや働き者のお母さんはね、ものすごく辛い思いをなさったと思うの。」
小林「やはり15だから、ボーイフレンドとか、何とかとか
そういうことをしたいじゃないですか。
でも仕事をしてわからなくなっちゃうんですよね。
そうするとどこかで爆発して
『このサイドボードも、これもあれも、全部私が仕事をしてきたんじゃないの。
お父さん達は何をやってんのよ。お父さんなんか嫌いだ!』
みたいなことを言ってぶっ飛ばされた、一回だけ。」
美輪「どっちも辛かったのよね。」
小林「私を殴った父は、私が打たれた痛みよりも、ものすごく痛かったんだと思います。
それを暴言というか・・・言っちゃって。」
美輪「若いんだもの。それは仕方がないよね。」
小林「15とか16でしたから。」
[試練の日々…]
小林「一番淋しかったというか悲しかったっていうのは
デビューして14、5ぐらいになった時にね。
いわゆる奥村チヨさんとか、ちあきなおみさんとか。
ああいう、こうセクシーなそういった歌が流行ってきたんです。
だから自分もこういう歌という風にレコード会社にお願いして、
がんばって出してもらったりするんですけど、
下まつ毛も上まつ毛も付けて口紅をいっぱい付けても・・・。」
美輪「あの頃は流行りでしたよね。」
小林「でも15は15なんですよね。
やっぱり20歳以上にならないと、こういう歌は売れないんだなって思ってて…。
やっと20歳になった。
これからはセクシーな大人っぽい歌、女っぽい歌も歌えるかな、と思うと
アグネス・チャンとか、百恵ちゃんとか、そういう時代が来ちゃうんですね。」
美輪「かわいい系になってね。」
小林「あれ?違うな?全部、逆行して。
神様に捨てられちゃったかな、歌の神様に、とか、思っていましたね、その頃。
~次々に訪れる試練の日々、それは
歌手として成長する為のステップでもありました~
[下積み時代の苦労]
小林「やはり歌い手って、ヒット曲がないとダメなんですね。
ヒット曲があるかないかで、泊まるところ、ホテルのランクが本当に違うんですよ。」
美輪「手の平を返されてしまうでしょう?」
小林「もうね私は本当に、地方でクラブとかで歌うときは、楽屋でしたから。
ホテルとか旅館じゃなくて、楽屋だったんですよ。
青森とかに行くと、真冬、本当に嘘じゃなくて、どんなに目張りをした旅館でも
隙間風で雪が入ってくる。起きたらお布団に霜。
『この白いの、何?』『ああ、そうか。売れないってことはこういうことか』って。
だからヒット曲が欲しい⇒いいところに、いいホテルに泊まりたいなって思いましたし・・・。」
美輪「それとね、日本全体がまだ貧しかったから。いいホテルってなかったの。
地方も何も、貧しいのが当たり前だったの。」
[苦労の中で学んだ事]
小林「だから逆に言えば、いろんな歌い手さんと大広間でご飯を食べさせてもらって
お風呂というと大きなのがひとつしかないんですよ。
そうすると看板の歌い手さんが入らないうちは、入れないんですよね、ず~っと待っている。
だから、我慢することは教えてもらいました。
看板の方が麻雀なんかをやっている日には今日は入れない、
『体を拭いて寝よう』とか言って『お先に失礼します』と。
でもいい先輩で『先に入ってもいいよ』となると
『ああよかった。お風呂に入れる』って。
そんな時代がありましたね。でも、いい経験になります。
今はみんなホテルじゃないですか。必ずお風呂が付いていますけれど。」
美輪「今だったら、お金を出してもそういう経験はできませんよ。」
小林「そうですね、上座も下座も今はないですから。」
江原「でも逆にいまの時代、子どもたちとかに本当は必要なんですよね。」
美輪「けじめね。」
江原「つい最近、野球選手のお話で伺いましたが
、昔は旅館で
お手洗いに行くのも忍び足で行くとか、布団を踏まないようにとか
先輩よりも遅く寝て、早く起きるとか。」
美輪「人の枕元は通っちゃいけないとかね、気遣いとか思いやり・・・。」
江原「そういった意味で、マナーを覚えることができた。今は個室だからね。」
小林「『お風呂をお先にちょうだいいたします』なんて言葉はないですものね。」
国分「今はないですね。でも、昔は聞いたような覚えがあります。」
小林「そうですか。」
[どんな歌でも歌える]
小林「歌を歌うこと自体は大好きなんです。
クラブとかキャバレーで歌うと
いろんなステージがありましたから、民謡が似合うキャバレーとか
シャンソンが似合う、ジャズが似合う、もういっぱいあったんですよ。
自分の歌も歌ったりしましたけれども、そのお店、箱に合う歌を練習するんです。
上手でも下手でも、とりあえず引き出しに入れておかないと。」
だって、ナイトクラブみたいな所で民謡歌うわけにも行きませんから。」
美輪「そうね。」
小林「この仕事、この内容に合う歌は歌えますか?と言われたら
歌えます。いつでもOKです、って言う。
仕事が欲しいから、そのために勉強したみたいなもので。
今考えるとものすごく良かったなと思います。」
美輪「あの頃の芸人さんとか歌い手さん、終戦後からの時代というのは
本当にすごい時代だったわね。
私も『メケメケ』で有名になる前と、有名になった後
シンガーソングライターの元祖でやるときに『ヨイトマケの唄』を作り出して
宝石や何かは邪魔になるんで素顔で、ワイシャツ一枚で歌うようになったら
『商品価値がなくなった』というので、仕事がパッとなくなって翌日から干されて。
それでキャバレー回りをやると、いろんな食べ物が飛んでくるのよ。
最後には泣いてるくせにね、それで私、がんばって歌ったりして、とにかくいろんなこと・・・。
でもおもしろかったわね、考えてみたら。」
小林「そうですね。こうしていま、こういう形で歌い手としてやらせてもらっているので
その当時のこと、それはそれでおもしろかったなと言えるくらいに、今はおかげさまで幸せです。」
国分「15年前、そういう時代を経て15年目で、ヒットしていくわけですよね。
これはもう両親も喜んでくれたんじゃないですか?」
[反対し続けた母]
小林「そうですね、父は喜んでくれて。
もちろん母も、本当は一番のファンでいてくれたんですが、新潟の女ですね。
『お母さん、今でも反対してる?』と言ったら
にっこり笑って『反対してるよ』、死ぬまで言い続けていました。」
美輪「天邪鬼ね。」
~ステージにあわせて、どんな歌でも歌えるように。
下積み時代の苦労のおかげで
小林さんは演歌の枠を超えた表現力を身につけました。
一方それは、スピリチュアルに見れば必然の道のりでもありました。
そして、さらに歌手として今、正に抱える問題へと繋がっていくのです
デビューから15年、小林幸子さんがようやく巡り合ったヒット曲
『おもいで酒』。
幼い頃から、なぜ歌手に導かれたのか。
演歌の枠を超えた派手な衣装や演出へのこだわり。
そして、亡きご両親が今、心配する事。
その全てが今、伝えられます~
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