加藤和也
【 2007年11月24日放送】【2時間SP】パート1
今日のゲストは、昭和の歌姫、故・美空ひばりさんの息子さんである加藤和也さん。
~戦後の日本に現われた天才少女歌手
栄光と波乱の人生を歩んだ戦後最大のスター美空ひばりさん
今も尚ファンの心を捉えて放さない、その歌声
昭和の歌姫が今夜、甦ります~
~加藤和也さん。これからスピリチュアル・チェックを始めます~
【加藤和也 スピリチュアル・チェック】
小さい頃どんな子どもでしたか?⇒少し暗くて、あまり本当のことを 話さない子供
だったと思います。
よく見る夢⇒小さい頃、毎日「家族がひとりずつ消えていってしまう夢。」と
「悪いピエロが出てきて、いたずらをする夢。」を毎日みました。
不思議な体験⇒九死に一生を得たという経験が何回もあります。
奇跡を感じたことはありますか⇒やはりうちのお袋が東京ドームで
復活コンサートができたときです。
一つだけ願いが叶うとしたら?⇒お袋に生き返って欲しいです。
[江原さん、美輪さんについて]
加藤和也さんはオーラの泉を毎週見ているそうです。
また、昔から美輪さんの大ファンで、ビデオも何本も持っていてCDは車の中で、
いつも聞けるようにしているとのこと。
江原さんとは初めて会うそうです。
[九死に一生の体験を何度も]
国分「加藤さんはスピリチュアルな世界というのには興味はありますか?」
加藤「小さいときは本当にそういうことを感じることはなかったんですけど
ある年を境に、ちょっといろいろ不思議な体験をしたりして、それからですね。
やはりこういう世界ってあるんだなって。」
国分「具体的にいうとどういうことですか?」
加藤「お袋が死んでから、車が趣味で毎日のように飛ばしにいくんですけれども<、br />
あまり走り屋とか人が集まらないところで、例えば山の中で、
その時は 四輪駆動に乗っていたんですけれども、何度も横転して。
本当に映画でみるような、コーナーで滑り出して、正面から衝突して後ろに1回ひっくり返って、このまま4回転して。
僕が下で、友達も乗っていたんですけど、誰もケガをしなかったんですよ。
何度かの衝撃の後に、気がついたらエンジンがまだ鳴っていて、
ラジオが薄くかかっていてガタ、ガタ、ガタってタイヤが回っている。
しばらく自分がどこにいるのかわからなかったという・・・。」
美輪「映画みたいですね。」
加藤「ええ。現実に、生きていられたというのが不思議で。」
江原「そういうのってよく『救われる』とか『助けられる』とかって
言うじゃないですか。あのね、すべてがそうだとは限らないんですよ。
加藤さんの場合は、助かることも見越したうえで、わざとそうされている。
なぜかと言うと、九死に一生が何回も、とおっしゃるけども、
加藤さんは そこまでしてもらっているのに、性懲りもなくまた危険な運伝をするんです。
要するに『怖いぞ』ということを身に覚えさせてという、
ひとつの試練をわざと与えて、『これでもう、そういうことをしないようになるだろう』と。
それなのに、『ああ、助かった!』ってまた。」
加藤「懲りないんですね。」
国分「加藤さん、もう気付きましょうよ!」
加藤「そうですね。」
江原「そういう事あるんですよ。何でも、救ってもらって、とかあるんだけど。
あえて、わざと怖い思いをさせて、安全にさせよう、という導きで起こすこと。
番組をご覧になっている方も、悪い出来事と思うようなことがあると、
すぐ 守られていない、という風に思うでしょう?
わざと、転ばされる、ということがあるんですよ、人生の中で。
それが愛情だったりするときもあるんですよ。」
国分「なるほど。その先は気をつけますものね。」
江原「そう。ちょっとしたミスがあって、最近、私はツイてない、とか言うけれども、
ツイていないんじゃなくて、されている、ということであり、
感謝しなくちゃいけないことなのに…ということが、いっぱいある。
私がカウンセリングをやっているときに、多かったんですよ。
私はろくでもない守護霊がついていると思う、とか、ひどいことを言っていて。
でもそれは、教育的指導だったりするときがあるんですよ。
だから命を粗末にしちゃいけませんよ、とか。そういう風な事をちゃんと、ね。
だから、そういう事が起きる事、試練が守られてる事なんですよ。」
国分「今日はもう、気づきましたね。もうやめましょうね。」
加藤「もうしません二度としません。」
~1971年8月10日、美空ひばりさんの弟・かとう哲也さんの長男として
和也さんは生まれました。生後間もなく両親が離婚。
和也さんを引き取り、実の母親以上の愛情を注いだのが叔母のひばりさんでした。
当時デビュー25周年を迎え忙しい毎日を送っていたひばりさん。
家族で過す時間は、ごく限られたものでした。
[母との生活]
国分「実際に一緒にいる時間はあったんですか?」
加藤「ほとんどなくてですね、だいたい年のうちにべったりいられても 3日ぐらいだったと思います。」
美輪「じゃあ、お寂しかったでしょう?」
加藤「そうですね。ただ友達があまりいなかったので、
他の友達と自分を比べることがなかったので、多少は。
みんなこういうものなんだ、って思ってましたので。」
国分「その3日は、どういう風に過ごしていたんですか?」
加藤「一番うれしかったのは、多分、高価なものだったと思うんですけど
8ミリの映写機を買ってくれて、一緒に家にいるときは2人で
いちごなんかを食べながら、一緒に観てもらったり。
たまに気が向いたときには、遊園地に連れていってくれたり。
ママが帰って来る、と言うと二週間くらい前からうれしくて眠れなくなるんですね。」
国分「『何して遊ぼう』とか、自分の中でソワソワしてきて。」
加藤「友達の家に遊びに行くと、まずお母さんが家にいて、休みの日はお父さんも家にいて、
お昼になると焼きそばだとか、カレーライスとかご飯を作ってくれて。
それを食べさせてもらうんですけど『家ってこうなのか』とういうのが、大体そのときにわかって。
人のお父さんなんですけど、キャッチボールをやるときに、友達と僕を並べてもらって
交互にやってもらって。
なんか、いいな、とはちょっと、その時に思いましたけれども。」
美輪「でも、あなたも孤独でいらしたけれども、お母様も孤独だったからね。」
加藤「もう、あんな孤独な人はいなかったんじゃないか、とは思います。」
~ひばりさんを母親と信じて育った和也さん。
二人の本当の関係を打ち明けられたのは小学生の頃でした。
ひばりさんを語る時、欠かす事が出来ないのが母の喜美枝さんです
プロデューサーとして“歌手・美空ひばり”を育てた喜美枝さんは、
家庭では和也さんの教育係でもありました~
[祖母の教育]
国分「先ほど、友達があまりいなかったというお話が出ましたけれども
作らなかったんですか?」
加藤「遠い学校に通っていたから、どうしても友達が近くにいなくて。
でも、たまたま、家にボールが入っちゃった、ってあるじゃないですか。
近所の同年代の子ども達が遊んでいて、ボール取らして、ということで
『じゃあ、庭で遊ぼうよ』って庭でキャッチボールなんかをしてるんですけど
うちの祖母ちゃんがなかなか強烈なキャラの人で『どこの子?』と
そういう時に限って、ばあちゃんがいるんですよ
『どこの子か分からない子と、遊んじゃダメです』って言われて。
すごく名残惜しいんですけど、結局、バイバイ、って。
名前も知り合わないうちに解散ってことがありました。」
国分「ちょっと切ないですね。近所にお友達がいないというのは。」
美輪「でもね、それはお祖母さんだけじゃなくて、あの時代、
つまり明治、大正、昭和初期を潜り抜けた人達は、それが口癖だったんです。
『どこの子?』って必ず、きいたものなんですよ。
『どこの誰だかわからない子達と遊んじゃいけません』と。
親が選んだんですよ。今は子供が選びますよね。
昔は親が『誰と付き合ってもいいけれども、誰とは付き合っちゃいけない』
それが常識だったんですよ。」
江原「当時は誘拐とか、いろんなこと起きるでしょう?
だから過敏になっていたことは確かですね。」
美輪「いろんな物騒なことがよく起きたんですよ。」
加藤「実際、当時は脅迫状が何通か届いたことがあって。
僕が幼稚園に上がるか上がらないかだったんですけど、家にいっぱい刑事さんがいて
『爆弾』とか何とかって、言っていた気がするんですけど。」
国分「『仕掛けた』とかそういう。」
加藤「ええ。そういう感じだったと思います。
みんながすごく緊張しているのを不安な気持ちで見ていたりとか・・・
やっぱりいろいろなことがあった家ですから。
小さいときに、そういう怖い人が玄関の鉄の門のところをバットで引っ叩いているのをみて、たまたま皆がいなくて、僕がひとりでその近くにいたりして
結構、怖い思いはしたりしたんですけど。」
美輪「本当に芸能人の家というのは『有名税』って言うけれども
『正負の法則』よ。
有名になればなるほど、それだけのツケがものすごいんですよ。」
[養子と告げられた日]
国分「ご自分が養子だと知ったのはいつ頃だったんですか?」
加藤「家の中に大人が読む雑誌があるじゃないですか。
子どもながらに興味があって開いて見たりするんですよ。
ママが載っているとなるとやはり字は読めないんですけど、
ひらがなだけ読んでいこうとするんですよね。
そうすると、どうやらおかしな雰囲気のことが書いてあるな、と思い始めて
『そういえば、パパとママって姉弟だよね』
家族、結婚ってこういうもので、というのがなんとなくわかるような年になって
何度か大人に困った質問をしたことがあるんですけど。
うちの親父とお袋は戸籍上、姉弟なので、実際はうちのお袋は伯母じゃないですか。
そういうことをきいたら、周りの人は困ってしまうんですよね。
親とかばあちゃんにはきけないので周りの人にきいたりするんですけど
そんなことを勝手に言っちゃダメ、というルールがあったみたいで
ある日、小学校1年生か、2年生かだったと思うんですけど
『和也、ちょっといらっしゃい』と言われて。座ったら、お袋は下を向いて黙って座っていて
祖母さんが『実はあんたの生みの親は別にいるのよ』ってそこで初めて聞かされて。
ただ、そんなにびっくりはしなかったんですよね。
『今日がこの日だったんだ。今日、これを聞かされる日だったんだ』と。
『あんた、どうしたい?』
僕は何か決めなくてはいけなかった感じだったと思うんですよ、
よくわからないんですけど。
『あんた、どうしたい?』って急にきかれたので。
『どうしたい?』と言われても、もう物心ついたときから 『パパ、ママ』でしたから、
他にお母ちゃんがいるって言われてもちょっと実感がわかなくて、
僕は、この家の子だから、どうしてもうちのお袋が生んだんじゃないんだったら、
親父の腹から出てきたことにしてくれればいいじゃん、ということで、
そんなことを言って、部屋に戻って。
あとはよく覚えていないんですけど。」
国分「うん。」
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