加藤雅也

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【 2008年06月21日放送】【127回】パート1

今日のゲストは、モデルから俳優へ、ハリウッドでも活躍される国際俳優の加藤雅也さん。

【加藤雅也 スピリチュアル・チェック】

小さい頃なりたかった職業は?⇒教師かスポーツトレーナーです
あなたの長所は?⇒粘り強く、何でもやり続けるところですかね
あなたの短所は?⇒考え過ぎ、慎重になり過ぎるところがあります
人生の転機⇒22歳でモデルの仕事を始めた時だと思います

将来の夢は?⇒もちろん、俳優としてもっともっといろんな仕事もしてみたいですし、
舞台をまだ踏んだことがないので舞台という仕事もしてみたいと思いますし、
教師を目指していたこともあるので、今から教師にはなれないんですけれど、
何か教えていくようなこともできたらいいなとは思います。
あと、映画監督ができたら本当にいいなとは思います

BROTHER

国分「加藤さんは、そんなにトーク番組に出る方ではないですよね。。」
加藤「昔はあまり得意じゃなかったですけど、最近はもうなんでもやってみようっていう形で、わりとこう。」
国分「もう、自分から参加して行こうかなと。」
加藤「自分から出たい、出たいとはいいませんよ。チャンスがあれば。」

~1963年奈良県出まれ。県内一の奈良県立奈良高校に入学。 陸上部に所属し、インターハイに出場。
文武両道の少年でした。
そして、教師を目指し横浜国立大学教育学部へ進学。
ここで大きな転機を迎えます~

[大学時代の出会い]
国分「すごいですね。国立大学を卒業して、しかもスポーツマンで。」
美輪「文武両道ね。」
加藤「でも、スポーツでも、オリンピックに行きたいな、と思いましたけれど
やっぱりできなかったわけですし、東大に入ったわけでもないし、
結局、上を見たら上がいるんですよ、世界は広いんですよ。」
国分「大学で勉強するときっていうのは、相当はまるわけですね。」
加藤「入った以上は、勉強するものだとは思ってたんです。できるだけ出席して。
中途半端なのはいやなんですよ。入った以上は出ようとか。はじめた以上は終わらせようとか。
でも、そんな中で『モデルをやらない?』っていわれて、
『あ、こういう世界があるんだ』っていうのが、すごく衝撃的だったですね。」

国分「それまではどうなんですか?芸能界というのは興味はあったんですか?」
加藤「興味があるというか、テレビ、ドラマとかみてましたけど 、
あれは、“テレビの人”っていう感覚があって、自分がそこに入るなんていう感覚はないですよね。」
美輪「でも、それだけ美貌でいらっしゃれば、学校時代から周りにいろいろ言われませんでした?
『そっちの方へ進んだら?』と。」
加藤「全然、そんな感覚ないですね、奈良の人っていうのは、
全くそういうことに自分たちが関わるっていう感覚がないですから。」
美輪「本当に、私が大好きなのは、時間が止まっているのよ。
私、コンサートに行ったりするでしょう?奈良の駅を降りると、
『時間が太古のまんまだ』と思うの。」

国分「太古のまんま。止まってますね、時間は。
だから横浜へ来たときに『こんなに格好いい人がいたんじゃないか』ということで、 スカウトされたわけですものね。」
加藤「いや、それも不思議で、あるときに、その当時、“ぴあ”ともう1つ“シティロード”という雑誌があって。」
美輪「テレビのね。」
加藤「ええ。いつも僕、ぴあを買うんですけど、買いに行ったらたまたま シティロードしかなかったんですね。
でも『番組表欲しいな』と思って、シティロードをパッと買って見ていたら
後ろに『映画を作る』みたいなサークルの小さな記事があって。
たまたま駅が、自分の住んでいるところの次の駅で、『あ、近いな』と思ったんですよ。
普通は絶対、僕の行動からしたらあり得ない、割とそういう危険なものには。」
美輪「『君子危うきに近寄らず』ね。」

加藤「そう。そこでサークルをやったリーダーの人と知り合いになったけれども、何回か行って。でも自分のクラブもあるし、バイトとかもあるし、そんなに何か出れるようなわけでもない、うやむやになったんですけれど。
それから1年ちょっとたったぐらいのときに、学校に行ったら張り紙がしてあるんですよ。
『教育学部○年生の加藤雅也さん、電話を下さい』っていう。
それがそのサークルのリーダーだった人からで、電話をしたら
『実は僕はモデルクラブのマネージャーになったんだ』と言って、
『やらない?』っていう話があった。」
国分「その方がマネージャーになったんですか?」
加藤「そうです。」

美輪「だから後ろの方で全部、プログラミングされているのよね。」
国分「本当ですね。」
加藤「だからそういう時に運命を感じますね。不思議だ、絶対不思議だ。」
国分「本当に転機ですね。」

~マネージャーとの運命の出会い。そして、ファッションモデルの世界へ進んだ加藤さん。雑誌の紙面を飾り、一躍トップモデルとなったのです。1987年にはパリコレにも進出。しかし、このとき味わった苦い思いから再び人生の転機を迎えます
25歳の時「マリリンに逢いたい。」で映画の世界へ。加藤さんの役者人生がスタートしたのです~

[モデルで知った限界]
国分「なぜ、俳優の道へ行こうと思ったんですか?」
加藤「そうですね、最初モデルをやっていた時には、やはりモデルをやるなら“雑誌”。
雑誌をやったら、今度は“ファッションショー”と 勝手に自分の中で決めていたんですけれど。
じゃあ、もっと上は何?といったらパリ。 単純な発想で、じゃあパリ行こうって行って。
行ったらその当時は、みんなマッチョで背の高い人たちが人気だった時期で、僕は小さいんです(加藤さんの身長は183cm。183cmでも小さい。)」
国分「あ、そうなんですか?」

加藤「ええ。それでフィジカル的にもう 『どう考えたって、この服、着られないじゃないか』っていうすごいリミットがあって。
僕は“人間は誰でも可能性がある”と思っているんですけど。
陸上を断念して、スポーツトレーナーとか、そういう風な方に行きたいって考え出したのも結局、自分の筋力とか、最大酸素摂取量とか、そういうのを全部ある公式に入れたら 自分の限界が数字で出ちゃうんですよ。
そんな数字が出たものを努力したって、上にいけないなら意味がないからや~めた、って。
非常にそういうことに関してはもろいんですね。
データがあって『俳優をやるには、こういう身長で、こういう人はなれません』ってなったら僕はパッと辞めますね。」
国分「あ、そうですか?」
加藤「でも、ないでしょう?」
国分「ないです!」

加藤「俳優はどんな人でも、誰がどうなるかわからないからできるんですけれど 。
データのあるものには弱いんです、非常に。」
国分「はあ。」
美輪「モデルさんは、とにかくプロポーションとかね、そういったものや何かが もう始めから決められてますものね。
でも俳優さんは 三等身の人でも、二等身の人でも 仕事があるのよ。それが個性になるから。」
加藤「そうです、個性ですよね。」
美輪「そうでしょ。だからどんなタイプの人でも無限に可能性があるの。」
国分「そこから、どんどん入っていきましたか?のめりこんでいくというか。」

加藤「だから俳優の世界に入ってもやはり同じことをやっているんですよね。
例えば日本人の俳優さんはハリウッドの映画には出られないよ、と聞くと
『何で出られないのかな?』って考えるんですよね。で、それが知りたくなるんですよね。
出られなかったら、出られなくてもいい。ただ、理由を知りたい。
それがわかればいいんですけど、わからないから何でかな?と思うと じゃあ行ってみれば。」
美輪「突き止められると。それでハリウッドへいらしたの?」
加藤「行ってみて、『あ、こういうことか』ということとかも、わかってきますよね。」

~念願のハリウッドに進出。ブルック・シールズやジャクリーン・ビセットといった 大物女優とも共演をはたした加藤さん。しかし、本当の勝負はここからでした。日本人が誰でもぶつかる言葉の壁。1990年にアメリカに語学留学。まず、英語をマスターすることから始めたのです~

[ハリウッドの壁]
国分「デビュー2年で語学留学したのはなぜですか?」
加藤「だから、『マリリンに逢いたい』の公開のあった後に、すぐにモデルのときと同じような甘い考えでロスに行きまして、いろんな人にゲリラで会ったんですね。
モデルのときは自分でモデルクラブをノックして 『俺は日本から来た』っていって
『モデルをやりたいんだ』と言えば、言葉はいらない仕事なので 比較的『OK!』という感じだったんですけど。
ところが俳優でも同じようにやってみると『はあ、何言ってるんですか?』ぐらいの。
でも、これが俺の本当の実力だ、というのがわかるわけですよ。
せめてこの人たちが理解して、しかも普通にアジア系アメリカ人みたいなことで
オーディションに行って受かるようなことになれば、
英語がしゃべれて、英語が演技できるレベルになる。
これは別にトップのレベルじゃないですよ、あるレベル、 スタートラインに立てる というところまでは、絶対これはやらないと、裸の大将だなと思って…。」
江原「だってね、ただの英会話じゃないんですよ。芝居をしなきゃいけないんですよ。
言葉に全部、振りがつくじゃないですか。
特に外国人っていうのはみんな まるで手話じゃないかと思うくらい。」
美輪「自然に出てくるの。」
江原「それが自然に出てくる。欧米人とかって毎日が演劇してるみたいに。」
加籐「僕も動くようになってしまいましたけど、動きも大事ですね。。」

1994年、本格的に海外での俳優活動を開始。
ついに、1996年の映画「ボンテージ・ゲーム。」で準主役に抜擢されたのです。
日本人がハリウッドで成功するために、今もなおハリウッドでの挑戦を続ける加藤さんへのメッセージとは~

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