京本政樹

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【 2007年01月31日放送 】【85回】パート1

今日のゲストは、時代劇などで活躍の俳優の京本政樹さん

国分「今日はいくつになっても変らない美形の俳優さんなんですが、 伝言を頂いております。
『僕は、丹波哲郎さんに、可愛がって頂いた事もあり
死後の世界やスピリチュアルな世界に非常に興味があります。
今日は色々おうかがいできるのを楽しみにしています』 と、いう事ですけど、この方も年取らない方ですね。」
美輪「もう1000年か2000年も生きてる感じ。」
江原「多才な方ですよね。」

~俳優、京本政樹。1959年1月21日 大阪生まれ
ミュージシャンを、目指した彼が。時代劇の道へ
そこには往年の大スターとの、不思議な出会いが~

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~京本政樹さん。これからスピリチュアルチェックを始めます~

【京本政樹のスピリチュアル・チェック】
自分の性格を一言で⇒神経質なところもあるけど、意外に図太い。
好きな言葉⇒宮本武蔵の言葉「我ことにおいて後悔せず。」
苦手なもの⇒虫という虫が全部嫌い
美しいという言葉から連想するもの⇒美剣士とか時代劇の様式美
人生の大きな転機⇒10代の頃に時代劇の大御所、大川橋蔵さんに会ったこと。
霊感はありますか?⇒霊感自体はないが、亡くなった父のことで気になることがある。

国分さんと京本さんは何度か仕事を一緒にしたことがあるとのこと。
天国にいるような雰囲気がしているようですが、リラックスさせようとしています。
美輪さんとは、初めて会うそうです。
けれども美輪さんが丸山という名前を名乗っていらっしゃったときに(美輪さんによるとお嫁に行く前のことだそうです。)
子供の頃『ヨイトマケ』を観た時にすごく衝撃的で、 何度かテレビで流れると、『見たい』っていうような心境になった事があるそうです。

国分「いまの印象はいかがですか?」
京本「美しい…貴婦人になられたような…海外の方のような気がします。」
美輪「それはフランス時代なんですよ。ロアール地方のね、お城に住んでいたんですけどね。 その時代を感じられたんじゃありません?
もう、世界各国、 いろいろ生まれ変わっていますのでね、あなたと同じように。」
京本「僕もですか?」
美輪「そうですよ。」

京本さんは江原さんとは直接会うのは初めてなんですが、
5年位前関西の番組で VTRでカウンセリングをしてもらったことがあるそうです。
京本「その時に、言って頂いた言葉があって、
大川橋蔵さんとのつながりのような事を言ってくださったんですけども、
ぜひ、お会いして聞いてみたいな、というような事を僕はずっと思ってました。」

スピリチュアル・チェック振り返ります。

[大川橋蔵との出会い]

国分「人生の転機が大川派橋蔵さんとの出会いという事で、
どうやって出会ったんですか?」
京本「一番最初に橋蔵先生と直にお会いしたのは、
もう京都の撮影所に僕の、まあ兄貴分というか、
仲良くしてる森田健作さんがいらっしゃって、単に遊びに訪ねていったんですけど。
その時に、撮影オープンスタジオの方にいらっしゃって。偶然にもお会いして。
僕は、まだ18、19だったんですけど、そしたら半年後に、
これは橋蔵先生が別に推薦してくださったわけではなくて縁があって、
『銭形平次』というドラマに出る事になって。
で、初めて撮影所を訪ねた時から、プロデューサーがびっくりするぐらい、
メイクの手付きや所作を教えて下さるんですね。」

~日本を代表する二枚目俳優として一世を風靡した大川橋蔵さん
この往年の大スターと出会いが、京本さんの運命を変え
時代劇へと導いたのです~

京本「ただ僕、実はその時ミュージシャン志望で音楽の方を一生懸命やっていたので。
あと、青春ドラマとかをやりたかったので。」
国分「時代劇はそんなに興味がなかったんですか?」
京本「はい。それで、『なんでこんなに教えてくださるんだろう?』と思いながら、
その三ヵ月後には、誘われて舞台に出ていました。
そういうことをやっている間に 自分は『時代劇をやりたいな』っていう風に。
それで今の京本政樹があるので、すごく転機ですね。」

美輪「でも『仕事人』は太秦は太秦でも東映の方じゃなかったんでしょう?」
京本「橋蔵先生と『銭形平次』を3年間ご一緒して勉強しているときに、
深作欣二さんと角川春樹さんに偶然、お会いする機会があって、
『里見八犬伝』という作品に出るんですね。
(「里見八犬伝。」⇒1983年 監督:深作欣二 製作:角川春樹)
そのときに橋蔵親分が『京ちゃん、』と僕を呼んで
『もう、銭形を卒業しなさい』とおっしゃられて。
僕はレギュラーがなくなるのは困るんですけど。
『でも、あなたはこれでスターになるから。
コーディネイトも全部、僕がやるから』って。
里見八犬伝の現場まで来てくださって、
かつらのコーディネイトから衣装も全部やってくださって。」
美輪「優しい方ね。」

京本「それが封切られて、それがきっかけで『必殺!』になるんです。」
(「必殺!」1972~1992年 朝日放送と松竹が制作した人気時代劇)
美輪「あれは松竹の方の太秦だったでしょう?」
京本「そうです。その報告を先生にしに行った時にはもう、
日赤の病院にいらっしゃって横たわられていて。
『必殺仕事人に出していただくことになりました』といったら
『どんな役をやるの?』って聞かれて、 プロデューサーさんから、
中条きよしさん(三味線屋の勇次)の後釜になりなさいって言われてます』って。
そしたら橋蔵先生が『しけをた垂らすんだ。いくつだっけ?』というので、
(しけ⇒時代劇などで使われるかつらの乱れ。二枚目俳優の代名詞といわれている)
『23です』というと 『俺が東映で、そういう二枚目を本式にやったのが28ぐらいだから、出世、お前の方が早いな』っておっしゃったのが最期の言葉だったんです。
だから、僕の『仕事人』は、先生、ご覧になってないですね。」
江原「見てますけどね。死んでからあの世からね。」
国分「どういう感じで橋蔵さんは見てるんですか?」

江原「もともと京本さんとは魂のふるさとが一緒なんです。
基本的にツインソウルみたいなもの。
ツインソウルというのは双子の魂 (ツインソウル⇒同じ魂の家族から生まれた人間)。
それを非常に見抜いた方なの。
だからその出会いも必然だし、次世代に夢を託すというのも必然で、
こういう働きもあって、逆にプロデュースする側としても楽しむ。
だから、根っから芝居のお好きな方だったと思うんですよ。
それがすべてだったんじゃないかなと思います。

…ちょっと言ってる事がよくわからないんですけど、絵をもらいましたか?」
京本「えっと橋蔵先生が、絵というよりも、『町人眉のときはこうだ』とか、
『武士のときはこうだ』とかを自分で描いてくださって。」
美輪「参考書みたいなものね。」
江原「でね、それ自体、もう卒業みたいですね。
要するに『そういったことをもう参考にしない』
自分のオリジナルを作っていかなくてはいけないから。」
京本「はい。」
江原「で、そういう絵とか、芝居の道具みたいなもの、
『これを使え、これをこういう風にしなさい』とか、
ずいぶん細かくアドバイスなさったはずですよ。」
京本「そうです。本当に細かくご指導くださいましたね。」
江原「で、拝見していて思うのは、大川先生は霊感があったんじゃないでしょうか?
何か、そういったものを感じたりね。ドキっとするようなことをよくおっしゃいませんでしたか?
例えば心の中、見抜かれてるのかな?というようなこととか…。」
京本「それはしょっちゅうでしたね。タイミングがいいというか、
例えばいまの舞台の話でも、事務所から受けて、
実は僕は『絶対怖いから嫌だ』って断ったんですよ。
先生に会ったら『聞いてくれた?』というので、『全然、自信がないので…』というと
『ダメだ、そんなの。あなたは将来、座長をやるんだから』
もう決めつけるように。だから何も言えずについていっていました。」
江原「やっぱり、そういう霊能もおありになって、全て見抜かれていて。
京本さん自身のセンス、美的な感性とかを全部見抜かれていたと思うの。」

美輪「お幸せね。そういう方にお会いになったということはね。」
京本「ええ、橋蔵先生がいらっしゃらなかったら、
絶対、今の僕はなかったと言い切れますね。」
美輪「だってめったにいらっしゃいませんよ、そういう先輩って。」
京本「プロデューサーの方とか、東映の大部屋の方とかでも、 皆さんびっくりされていました。
『そこまで教えるというのは考えられない』って。」
美輪「しかも男同士でしょう?
自分も美形でいらしたし、また、あなたも美形だし。
そうすると商売敵が増えて来るわけだから、普通、芸能界ではみんな潰そうとかかりますよ。
それなのに、後輩が自分よりも上に行くように、横に並ぶように 一生懸命やるというのは…めったにそういう方はいらっしゃらないでしょう。」

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