村治佳織
【 2007年02月21日放送】【88回】パート2
今日のゲストは、クラシックギタリストの村治佳織(むらじかおり)さん。
パート1からの続きです♪
[小さな偶然]
国分「趣味が『小さな偶然を見つけること。』」
村治「はい。」
国分「これ具体的に言うと。」
村治「他に大きな趣味は、なくてですね。例えば偶然っていっぱいありますけど。
それに『気付くか気付かないかないか。』って、そういう風に思っていて。
例えば、お散歩途中で本屋さんに入って
『あの本を買いたいんだけれども、今日はやめておこう。』と思って、
その後
たこ焼き屋さんに入って注文していたら、左側に女性の方が座っていらして
さっき私が欲しいなと思った本を読んでいらっしゃるんですよ。
しかもマイナーな本、ベストセラーとかではなくて。
それで思わず声をかけてしまったんですよ。『私もそれ、さっき買おうと思ったんです。』
その方は図書館で借りて、今日までに返さなくてはいけないから読んでいたんですって。
すごい偶然じゃないですか。」
国分「それは偶然というのか、この番組では必然と言っているんですけれども。」
(みんな笑い)
村治「やっぱりうれしいなと。これでひとつ、『今日もいいことがあった』っていう風に。」
国分「最近、僕も不思議な事があったんですけども。」
美輪「何でしょう。」
国分「あの~、最近覚えた言葉が、あったんですよ。
魑魅魍魎という言葉を…。」
〔魑魅魍魎(ちみもうりょう)…様々な化け物のこと〕
美輪「ははは。私の事よ。」
国分「『すごい漢字だな』って思って。『これはすごい言葉だ』と思って覚えたんですよ。
で、それで昨日友人に、『僕、すごい言葉、覚えちゃった』って話をしたんですよ。
『何だと思う?』って言ったら、『魑魅魍魎じゃない?』って言われたんですよ。
『ええっ!?』といって。「何でわかったの。」といって。
『いや、何となく魑魅魍魎ぽかったよ』って。」
村治「あはは。」
国分「何も言ってないんですよ。」
美輪「あなたの友達も大したものね。」
国分「そうですね。」
国分「で、その後、魑魅魍魎を辞書で調べたら、使い方として
『魑魅魍魎が跋扈する』というのが、あったんです。」
〔魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)する…様々な怪物がのさばる。〕
国分「跋扈も僕にしてみたら、もう初めて聞いた。」
美輪「あはは。」
国分「『いつか使ってやろう』と思って。」
江原「それで書けるようになったんですか。」
国分「書けないですね、あれは。」
江原「ははは。」
国分「そんな不思議な事があったんですよね。」
村治「これからいっぱい、あるかもしれませんよ。」
国分「うれしいですよね、そういう発見があると。」
村治「はい。」
国分「思い出したかったんだけれども思い出せないことを、
隣の人が持っていたものだったりとか。」
村治「この言葉、何だったっけ?って分んなかったのが<、br />
テレビをつけたら、その人が言っていたとか。」
国分「ああ、そういうの。」
村治「はい、そういうのを探す。」
国分「ほお。」
[作曲家ロドリーゴとの出会い]
国分「先程、江原さんがちょっと気になる事を。
何かいろんな細かい事で、ハプニングやらいろんな事が起きるというような部分が。
ちょっと僕と似てるのかなって思ったんですけど。」
江原「ちょっと違うの。」
国分「それは違うわけですか。」
美輪「残念でしたね、あははは。」
国分「いや、俺ちょっとね。ゴールデンまでにはそちらの方向に行けるように。」
美輪「あはは。」
国分「頑張りますので。」
(4月から放送時間がゴールデンタイムに移行します)
[ロドリーゴとの出会い]
国分「人生の転機はロドリーゴさんとの出会い、と。」
村治「はい。」
国分「このロドリーゴさんというのは。」
美輪「有名な方なのよ。」
村治「アランフェス協奏曲という。♪タララン、タラ、ラ、ラ~
という曲を作曲された方なんですけどね。」
(アランフェス協奏曲が流れます。)
(ホアキン・ロドリーゴ1901~1999…スペインの作曲家。
「アランフェス協奏曲。」「アンダルシア協奏曲。」などを作曲)
村治「この方ともお会いできると思っていなかったんですけれども…。」
江原「生きていらっしゃったんですか。」
村治「はい、98歳まで生きておられたんですよ。
私がお会いしたときは、亡くなる半年前だったので。」
国分「どうやってお会いしたんですか。」
村治「お会いする何年か前に、ロドリーゴさんの作品を弾いたアルバムを
私が作っておりまして、
それを日本の音楽評論家の先生が
ロドリーゴさんに送って下さっていたんですよ。
それから何ヶ月かして『あなたのCDを聴きました』という手紙をいただいて。
その当時、私はパリに留学中だったんですけれども、いただいた封筒に
住所とか電話番号があったので、『現実の、お会いできるチャンスがあるんだ』と
初めて思って。
たまたま同じ時期に他の番組から『私の
ドキュメンタリーを撮りませんか?』というお話をいただいていて、
それは私の日常生活よりも、もっと本当に素晴らしい方にお会いできる、ということを
記録として残しておくのもいいな、素晴らしいと思って、それを願いして。
結局
テレビスタッフの方と一緒に、マドリッドに行って。」
国分「ああ。マドリッドに住んでるんですか。ロドリーゴさんは。」
村治「はい、お会いできたのはその時だけでしたけれども、
その後、ロドリーゴさんの娘さんと、あ、だんな様もヴァイオリニストなんですけれども、
その方とツアーができたりとか。」
国分「はあ、そこらつながりがあって。」
村治「私もそのあと、ロドリーゴ作品を、導かれるかのようにして何作か作っているので
そういう出会いがなければ、そのあとの活動もないだろうなと思って。」
~アランフェス協奏曲で知られる
20世紀のスペインを代表する作曲家ホアキン・ロドリーゴ。
99年、村治さんはロドリーゴと念願の対面を果たしました。
その半年後、1999年7月6日にロドリーゴは帰らぬ人となったのです~
村治「98歳の方だったので、言葉のキャッチボールはできなかったんですね。
でも、ご自分の世界の中で、時おりピアノを弾いたり…。」
国分「あ、98歳でもピアノを。」
村治「はい。片手だけでしたけれども。私も98歳の方だったので
ベッドに横たわっているところを想像して、そこにご挨拶に行くのかなと思っていたら
グランドピアノの横に、背広を着て、ネクタイもしめて、座っていらっしゃったんですよ。」
美輪「粋ですね。」
村治「そのエネルギーがやっぱりすごかったですよ。98年。」
美輪「存在感。」
村治「というかお話できなくても、手を、こうやって触ったりとか
後ろに行って肩を持ったりとか。その何か感覚がすごく残っていて。」
国分「ロドリーゴさんに会ったことで、音楽的な感覚も変わっていくんですか。」
村治「劇的に変わることはないと思うんですけれども
でもやっぱり、その後、確実に曲に対する愛着は増した気がしますし。
特に『アランフェス交響曲』の第二楽章というのは悲しいメロディで、
自分のお子さんを亡くされたときに、その苦悩などを曲にしたもので、
お会いする前までは、どうやって理解、それをわかることができるかな?と
ちょっと行き詰っていたんですけれども、お会いできたことで、
私はいま、お会いできたうれしさがすごくある、と思って。
そのうれしい気持ちで悲しい曲を弾いて今はいいんだ、と。
『自分にできない経験をどうにかしてわかろう』ではなく、
発想の転換ができたことが大きかったです。」
国分「なるほど。それにしても、お会いしたいと思う方には、会えていますね。」
村治「そうですね。」
国分「美輪さんや江原さんもそうですけれども。
そもそもギターを始めたきっかけは何だったんですか。」
[ギターを始めたきっかけ]
村治「私は、きっかけといえる、この日に始めたっていう出来事はなくて。
父親が、ギターを教えているんですね。」
国分「あ、そうなんですか。」
(父・村治昇さんはマドリード王立音楽院の認定証を持つギターの先生)
村治「その影響で、もう赤ん坊の頃からギターを目にしていて
2歳半くらいのときに、小さなギターを父親が。」
国分「2歳半。」
村治「覚えていないです。そして、父親と二人羽織のような形で
父親が左手を押さえて、私が右手を弾くという、
そういう感じで始めたそうです。」
国分「ギターでもいろいろなジャンルがあるじゃないですか。
10代の頃って、そういったところには行かなかったんですか。」
村治「行かなかったですね。女子高だったので、
あまり周りにも
ロック少年と知り合う機会もなかったですし。
でも、ロック少年たちはすごく真剣で、私の演奏会にも来てくれるんですけれども
一番前の方に座ってジーっとテクニックを見ているんですね。
だからその真面目さ、真剣さはすごいなと思いましたけれども。」
国分「ああ。」
村治「違うジャンルっていうか。エレキギターを弾きたいなという
思いになった事は、ないですね。」
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