松居一代

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【 2008年04月05日放送】【2時間SP】パート1

今日のゲストは、船越栄一郎さんの妻でありお掃除名人で人気の松居一代さん。

【松居一代 スピリチュアル・チェック】

小さい頃はどんな子供?⇒すごい負けず嫌いでした
趣味⇒お掃除です
人生で一番嬉しかったこと⇒息子が誕生した時です
人生で一番辛かったこと⇒船越の赤ちゃんを流産した時です
好きな言葉⇒「陽は昇り、陽は沈み、必ず陽は昇る」
この言葉を支えに生きてきました

[オーラの泉について]
松居一代さんはご主人(船越栄一郎さん)がオーラの泉に出たときのビデオを
何度もみているそうです。それでみるたびに泣いてるのだとか。
こんなに素敵なメッセージを、私の息子、家族にいただいて幸せだと思うそうです。
その番組に、今度はわたしが出られることになってとてもうれしいそうです。

国分「前世では、息子さんと船越さんが親子で、そこで松居さんは働いていて、
洗濯、掃除もしていたということでしたからね。」
松居「私はお城のお姫様くらいに思っていたんですよ。 『でも、よく働くお姫様だなあ』 と思っていたんですけど。」

1957年 滋賀県生まれ。 競艇選手だったお父さんに似て、負けず嫌いの松居さん。
高校時代からモデルとして芸能界に入り、
22歳で11PMの司会者に抜擢され、29歳で青年実業家と結婚、待望の長男を授かるまで、まさに順風満帆な人生をおくっていました。
しかし、息子は重度のアトピー性皮膚炎にかかり、病との闘いの日々が始まります。

[息子のアトピーに]
国分「息子さんが重度のアトピー性皮膚炎という…重度というのは、どういうことなんですか?」
松居「もうすごかったですね。血だらけでしたね。初めて言えた言葉が『かゆい』でしたから。」
美輪「自分が変わってやりたいぐらいでしょ。」 松居「もう本当に『私の命と代えてでも、この子をよくしたい』と 思ったけれど、光が見えなくて、さまよい続けましたね。
辛かったですね、あの4年間、息子を脇に抱えてますから。
片時も離せないんですね、血が吹き出てきますから。
だから4年間の私の食事は、全部立ち食いでした。私の生活はすべてなかったですね。
『それでも息子が良くなれば』と、思ってましたから。」
江原「それだから耐えられるんでしょうね。 実は私も、重度のアトピーだったんですよ。
今はもう、克服しましたが、その辛さは本当に…。
私はね、小学校の高学年からなので、後からなんですけれど、21、2歳まで。
それで、どこの病院に行ってもダメだし、それこそ病院で研究、学会用に全裸で写真を 撮られたぐらいです。」

アトピーが消えた!―体の中からきれいになって

松居「息子もそうでした。
どこの病院でも『ここまでひどい子は見たことがない』と言ってね。」
国分「食べるものも、すごくいろいろ気を使ったんじゃないですか?」
松居「もう、『これがアトピーの原因かもわからない』『これかもわからない』と 言われて、私は全部除去して、作ってましたね。
パンもいろいろ除去して、安心なものを自分で焼いて、ずっと台所にいましたね。
でも、私は『絶対に息子を、私という母親の手でこの子を良くしよう。』 って思いましたね。」
国分「どうやって治したんですか?」
松居「もう…いろんなことをやりましたし、最後は中国まで。
日本で診ていただいた先生がいらっしゃって、その方が突然、いなくなったんですよ。
どこの方も、分からない状態だったんですね。
でも、『あの先生しかいない。』と思って、息子を連れて、
漢方薬を煎じていた鍋を抱えて中国へ、人探し旅行に行ったんです。
それが息子が3歳7ヶ月でした。 初めての海外旅行が、その人探し旅行だったんです。」

美輪「だって中国は13億人もいるんですよ。」
松居「そうです。雲をつかむみたいな映画のような話なんですけど、奇跡が起こって、 道端でその先生にめぐり合ったんです。」
美輪「映画だって、それをやったら『うそ!?』って言いますよ。」
松居「本当ですよね。ところがお目にかかって、
再び息子がその漢方薬を飲ませていただくことができて、完治に近づいていったんです。
だから、あの時、もしも『日本にいらっしゃらないんだから。』と ギブアップしていたら、今の息子の肌はなかったんじゃないかな?とは思います。」
国分「絶対にありえない確率ですよね。」

松居「本当に『何が入ってるんだろう』というくらい、みるみるよくなりました。
ところが、まだ良くならないうちに先生がいなくなられたわけですよね。
だからきっと、私にはその試練が必要だったんでしょうね。」
江原「実は全国には、アトピーで、何をしてもダメで『もう死にたい』って
それぐらい思う人が山ほどいらっしゃるんですよ。」
松居「そうですよね、その苦い漢方薬を私の目の前で、ゴクゴク飲んだんです、初めての日に。
大人でも飲めないような薬なんです。
でも、それを3歳5ヶ月の息子が飲んで、私に 『お母さん、僕、治りたい。これを飲んだら、中国の人が治ると言ったから お母さん、飲めるよ。』と言ったんですよ。
1回も嫌とは言わず、朝と夜、決められた時間にゴンゴン飲んでました。」

どんな苦労をしても息子を助けたい。あきらめず、あらゆる方法を試した松居さん。その願いは叶い、息子さんのアトピーは治まりました。しかし、今度は松居さんが病に倒れたのです。
夫の浮気が発覚し、離婚。しかも夫の連帯保証人になっていたため、1億7千万円の借金を抱え、さらに顔面麻痺になってしまったのです。 度重なるストレスが原因でした。

[ストレスで顔面マヒに]
国分「ストレスで顔面麻痺にまでなったんですか?」
松居「ストレスは怖いですね。
突然、何の前触れもなくこの顔が 崩れてきたというんでしょうかね。
崩れてきて、4時間たったときに、舌にも麻痺が入ってきて
それで言葉がもうろれつが回らなくなったんです。
それで、お医者さんが検査をしたら『極度のストレス、睡眠不足。
4年間の看病といろんな問題が重なって、この病気は起こった。
もう、テレビに出ることとか、人前でお話することは、よくなってもちょっと考えられません。』とおっしゃったんですね。」
国分「考えられないというのは…後遺症?」
松居「完治はそこまではしない、ということですよね。
『顔が曲がったまま、言葉のろれつが上手くいかない、それは残るだろう。』と言われたんです。
もう私は『病室から飛び降りようかな。』と思うんですけど、
顔がお化けだったので 『飛び降りると身元判明にこの顔では…
もし、私だとわからなかったらどうしよう。』と。
『やはり、まだ生きるべきだ、顔がお化けでも、しゃべれなくても
この抱えている息子を20歳まで育て上げないといけない。』
その時に『何ができるだろう?』と思って、新聞広告の求人欄ばかり 毎日病室で見ていました。

その当時から、私はお掃除がすごく好きでしたから、
“み込みの家政婦さん募集”住とよく書いてあったんですよね。
『あ、これだ!これにいけば息子は育て上げられる。』とずっと思ってました。」

[借金1億7千万円]
国分「でも、借金はずっと残るわけですよね。」
松居「残りましたね、ずいぶん闘ったんですよ。
前の夫が、勝手に別居して作った借金だったんですよね。」
美輪「でもその借金が成立するというのがおかしいですよね。」
松居「最初は、本当に私も『何で私ばっかり』と思いましたけれども、試練でだんだん、 強くなってきているんですよね。
それで『今度は試練を楽しもう。』と思うようになったんです。
『私がこの手を出したら、向こうはどう出てくるか。よ~し、楽しもう。』と思って 。
ある程度のところから、すごくエンジョイできました。」
国分「強いですね。」
松居「それでもう『なんでもいらっしゃい、受けてたつわよ』 『いらっしゃいませ』
というような気持ちになりましたね。」
美輪「まさに、女の中の女ですよ。」
松居「でもそれも、息子を背負っていたからだと思います。」
美輪「息子さんがいらっしゃらなかったら、途中で挫折していらしたと思いますよ。
でも『この人のために、私は死ぬに死ねない。地獄に落ちても生き抜いてやろう、 この人のためなら』
それが結局、その人のためと思ったのが、 自分のためにもなったということですよね。」
松居「そうですね。」

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