佐渡裕
【 2007年03月28日放送】【93回】パート1
今日のゲストは、世界で活躍するクラシック音楽の指揮者の佐渡裕さどゆたか)さん。
【オープニング】
国分「ちよっと聞きたい事があるんですけれども
海外で活躍する、日本人というのが増えた気がするんですね。」
美輪「ありがたいですよね。」
国分「スポーツは、昔からあったような気するんですけど。
やっぱり、その世界へ出て活躍するという事は。
運とか、そういうのも多分あると思うんですけど。」
美輪「いや、運だけじゃあねえ。それ、どりき。どりき、どりき。」
国分「どりきって何ですか?」
美輪「努力(どりょく)よ。」
国分「ははは。」
江原「ねえ。ただ海外出てる人って、すごい優秀なわけじゃないですか。
だけど、そういった方に限って、どの分野でも。
皆さん、フランクだからおもしろいですよね。」
国分「ああ、そうですね。」
江原「やっぱり、そういう人の方が、柔軟性があって誰に対しても、
分け隔てなく、っていうね。」
美輪「ほんとに、おっしゃる通りで威張らないの。
だから中途半端な小者が、一生懸命どこかでね、威張りたがるのよ。」
国分「そうですね。
そして今日のゲストはクラッシック音楽の世界で活躍する指揮者でございます。」
この方が今日は、わざわざ、この番組のために日本に戻って来てくれた、と。」
美「ヨーロッパからね。」
太「すごい番組ですよね。どんな話が聞けるんでしょうか。」
~1961年5月13日 京都府生まれ
幼い頃からクラッシック音楽に親しみ
初めて買ったレコードはバーンスタイン
音楽大学でフルートを学ぶが・・。再びバーンスタインとの出会いが
不思議な縁でバーンスタインの弟子となり、世界的な指揮者へ
度々、訪れる不思議な体験。何かに導かれるように歩んだ指揮者への道。
そこには芸術家の果たすべき大きな使命が~
~佐渡裕さん、これからスピリチュアル・チェックを始めます~
【佐渡裕 スピリチュアルチェック】
小さい頃なりたかった職業⇒指揮者
ストレス解消法⇒夜な夜な冷蔵庫を開けて野菜をみじん切りし、ひたすら炒める
座右の銘⇒座右の銘かどうか分かんないですけど、「自分はじゃがいも」
不思議な体験⇒自分が指揮をしている時に、自分や演奏している人やお客さんを
会場の天井から眺めていたことがある
将来の目標⇒いっぱいありますけど、子供たちやまだコンサートホールに来たことのない
たくさんの方に一人でも多く喜びを伝えたいと思います
国分「お忙しい中、本当にどうもありがとうございます。」
佐渡「いいえ、ほんとに楽しみにしてました。」
[世界で活躍する指揮者]
国分「日本には、どのくらいですか?いるのは。」
佐渡「そうだな、半々くらいですね。
昔は3分の2がヨーロッパで。3分の1日本だったんですけど。
兵庫県の新しいホールを、一昨年の10月にオープンしまして。」
(現在、兵庫県立芸術文化センターの芸術監督を務めている)
佐渡「それが去年1年間オープンだったので。今は半分半分ですね。
今回も、2週間ヨーロッパ行ったら、またこっちへ少し戻ってみたいな、感じですね。」
国分「プライベートな時間であると、テレビ見たりする事ってありますか?」
佐渡「テレビ大好きですね。オーラの泉もずい分も見てますし。」
国分「ほんとですか。」
佐渡「今もね、DVDに録って、旅行が多いので、海外に行くとかなり見てますね。」
国分「スピリチュアルな世界はどうですか?」
佐渡「僕はね、自分が信じる信じないではなく、
自分の中で非常に不思議なことが起こり続けてきたので、ごくごくすごく自然に思えるし、
今日、実はこのスタジオに入ってきてびっくりしたんですけれど、
『もう、すでに見ていた』という気がものすごくしているんです。
この光の感じとか、目をつぶってもみんなから感じるこの気の漂い方。
この中に自分がいた経験がある気がします。ものすごく心地いい感じ。」
国分「でも美輪さんとは初めましてなんですか。」
佐渡「はい、そうなんです。初めまして。」
国分「美輪さんはどうですか。」
佐渡「愛の賛歌をテレビで歌われたのを聞きました。
僕は感動しました。『ものすごく芸術家だな』と思いましてね。」
国分「芸術家。」
佐渡「はい、すごくそう感じます。」
美輪「恐れ入ります。ありがとうございます。」
国分「江原さんとは、お会いした事は?」
江原「あるんです、はい。」
佐渡「お寿司屋さんでお会いしたんですけど。」
国分「そうなんですか。」
[スシ屋で江原さんと]
佐渡「行きつけのおすし屋さんで、江原さんがいらしているという話を聞いていて、
じゃあ、会いたい。でも、こういう番組をやっていらっしゃるから、
プライベートで聞いたら失礼だろうな、と思いながら。
でも、音楽、歌をやっていらっしゃるので、
音楽の話ですごく楽しいこともあるだろうな、と思ってお会いしたんですけれども
『はじめまして』でカウンターに座ったら、
いきなり 『佐渡さん、お仕事は大丈夫だけれど、首だけは気をつけた方がいい。』
と言われて。
5年前にヘルニアを持っていると言われてて、その後、指揮の仕方も変わってきているし
そのことが心配なことだったんですが、いきなりそれから言われて、
『まあ、なんて人なんだ』と思いました。」
国分「ええ、ええ。」
江原「そのあとに、私は宝物をいただいているんですよ。
去年の年末に第九の演奏会があって、そこへ押しかけてきかせていただいて。
そのときに振った指揮棒をいただいたんです。」
佐渡「実はね、一楽章に入ったときに、どうも音が固かったんです。
それで割と強引に音を作っていったりとか。
オーケストラをドライブするのは良くないんですけれども
『強引にこういう方向で行こう』みたいなことをこちらは示さなくてはいけなかったんですけど。
それが、途中から気が満ちてくるんですよ。
それですごい演奏会になったんですけれども。
江原さんは遅れてこられて、一楽章の途中ぐらいから入ってこられて、
明らかにね、江原さんのパワーを感じながら演奏してたんですね。」
江原「『遅れて一楽章が終わったあとに入ったでしょう?』と言われるから
後ろに目があるのかと思いましたよ。」
美輪「指揮者は客席に後ろを向けていますから、見えないのに、おわかりになったのね。」
佐渡「わからないんですけれども、演奏者に対した指揮が、スパンスパン、
決まっていくんですよね。
放り投げた分が、ボーンと返ってくるような感じでした。」
江原「佐渡さんは不思議な人なんですよ。」
国分「佐渡さんも、そういう力を持っている。」
江原「そう。私もお目にかかったり、演奏会に押しかけて行ったりというのも、
いろいろな後ろで働いている力がありましてね。
よく美輪さんがおっしゃるけれども、私もときどき『配達員』みたいになって、
メッセージを届けなくてはいけないときがあるんですよ。あと、売り込みもあるかな。」
佐渡「ははは。」
江原「なかなかオペラに出して下さらない。」
[指揮者を目指すキッカケ]
佐渡「僕自身も音楽を小さい頃からやってたけれども<、br />
指揮者って、やっぱり特別な事だと思ってたんですね。
で、小沢征爾さんがいたっていう事は、僕にとってはすごく大きな存在で。
まあ、ほんとにスーパーマンだと思うし、天才だとも思うし。
ものすごい憧れを持っていたけれども、すごく遠い存在だったわけです。
それが大学生の頃、ある不思議な方に出会うんです。
僕はフルートをやっていたんですけれども、
『君は指揮者か?』って言われるんですね。
『いや、僕はフルートを専門にやっています。』『ああ、そう』と。
その時はそれで終わってしまうんですが、
僕はその話に興味があって、その先生に
『指揮を目指してもいいものなんでしょうか?』と話したときに、
それまで一切、宗教的な話はされなかったんですけれども。
その時に初めて2人で。何か、こう正面を向き合って、
『ここで起こることは、信じようと信じまいと、全然、かまわない。』と言われて
僕の目の前で、何語かわからない言葉でしゃべりだされたんです。
『君の後ろにいる人が、指揮者というのは音楽だけではなくて、
いろんなことを勉強しなくてはいけない、とおっしゃっている。
だからフルートで大学を卒業することも、指揮者の勉強をすることだ。』と。
全然、音楽のことは知らない方なのに、すごく専門的な話をされるんですよ。
オペラをやりなさいとか、音楽をやっていないとわからないことをいっぱいおっしゃって
『これは、僕が言っているんじゃなくて、君の後ろの人が言っているんだから。』と。
で、初めて、そういう何て言うんでしょうか、指導霊っていうんですか?
そういう人の存在を気づかされて。
本当にそこから、87年のタングルウッド音楽祭だとか、
小澤先生やバーンスタイン(1918-1990)に出会ったりということが、
トントントントンと起こっていくんですね。
(レナード・バーンスタイン 1918~1990)
佐渡「僕は、こう思ってるんです。
江原さんと去年の4月でしたっけ?お会いした時に。
僕からしてみればですよ。そういう後ろにいる人の存在というか。
この人生に生まれて来て、何か“自分がやらなきゃいけない事”を
誰かが伝えてくれてるな、って、そう思いますね。」
美輪「その方は御使いだったんですね。
後ろの方に使われて、メッセージをお伝えになったの。」
[バーンスタインとの出会い]
国分「バーンスタインとの出会いというのは、どういう形で出会ったんですか?」
佐渡「長く話してもいいんですか?」
国分「全然、話してください。」
佐渡「僕は次男なんですね。京都で6歳上の兄貴がいて。
それで兄のために、家の応接間にステレオみたいなのがあって。
そのレコードが、ほとんどがカラヤンだったんですよ。」
(ヘルベルト・フォン・カラヤン1908~1989)
佐渡「で、僕はレコードを聞きたいんだけど。
裕は、おちびちゃんだから。もうちょっと大きくなったら聞きなさい、と。
だから触らせてもらえなかった、レコード傷めるから、とかね。
で、自分のお年玉で、じゃあレコードを買おう、と。
買った自分のレコードがバーンスタインだったわけですね。
だからそれは多分『お兄ちゃんはカラヤンで、僕はバーンスタインにしよう』
と思ったんでしょう。」
国分「はい。」
佐渡「それがまず1つの縁でした。でそれがマーラーの『巨人』という曲なんですけど。
で、高校3年生の時にバーンスタインがニューヨークフィルハーモニーを連れて。
京都にそのマーラーの『巨人』で来るんですね。
でも、お金がなくて。朝から、その京都会館に忍び込んでですね。
隠れて、ずっと待ってるんですけど。本番直前に見つかってですね。
つまみ出されるっていう、これも強烈な思い出があります。」
国分「つまみ出されたんですか。」
美輪「ドラマティックじゃない。」
佐渡「85年の広島の原爆投下から40年のときにバーンスタインが来て、
そこで初めて彼の演奏を生で僕は聴くんです。
『ウェスト・サイド・ストーリー』だったんですけれども、もう強烈で。
(ウエスト・サイド・ストーリー…1957年初演のミュージカル。バーンスタインが作曲)
『こんな指揮の仕方があるんだ!』と思いました。
広島の平和コンサートの模様はテレビでも放送していたんです。
『広島の平和記念館を見てすごい衝撃を受けて…』
バーンスタインが指揮台で、少しスピーチをするんですけれども
『いまだに、人間達は人を殺す兵器を、いかに合理的に殺すかということを考えている。』と。
俺たちはどうしたらいいんだ』と言って
『祈るしかない』といって、ダーン!と指揮棒を振りおろすんです。
そのときは、ベートーヴェンの『レオノーレ』という曲で、
一番最初にダーン!となった瞬間に、僕は平和の中でぬくぬくと育っていたし、
彼のスピーチの重さもわからなかったけれども、
とにかくその鳴った音が、テレビのブラウン管を通して。
僕は大阪のつるや食堂っていう汚い食堂でですね、
さば煮定食なんか食べていたんですけれども、
そこのテレビでダーン!と振り降ろした、その棒が、
『やはり子供のときから好きだったこの人の音はこれだったんだ!』と。
そのときに『バーンスタインに会いたい!』と本当に具体的に思うんですね。
そうなったら行動は早くて、次の年の、小澤先生がやっていて、
バーンスタインが教えに来る音楽祭がアメリカのタングルウッドにあるというので、
まあ本当にダメもとですし、まさか通るとは思わなかったんですけど。
応募して通って。
2年後、87年の夏に、実際にその音楽祭に出ることになるんです。」
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