西城秀樹

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【 2008年03月8日放送】【121回】パート1

今日のゲストは、脳梗塞を克服した歌手の西城秀樹さん。

【西城秀樹 スピリチュアル・チェック】
小さい頃なりたかった職業⇒ドラムのミュージシャン
毎日欠かさずすること⇒ウォーキングとストレッチ
不思議な体験⇒幽体離脱もどき
人生で一番辛かったこと⇒父の死
将来の目標⇒いつまでも健康で歌えること

西城秀樹さんは美輪さんとは、会ったことはあるが話はあまりしたことがないそうです。
2~3ヶ月前から急に「オーラの泉」に出演したくなった、
そういう心境になる色々なことがあったそうです。

GOLDEN☆BEST

スピリチュアル・チェックを振り返ります。
国分「不思議な体験の『幽体離脱もどき』というのは、どのような?」
西城「自宅のマンションで、疲れて、本当に何も考えない状態の時に起こったんですね。
確実に心臓がドキドキしているので『何なんだ?』と思ったら、下に僕がいたので。
その後、上に飛ぶんですよ。
風景は見えないけど、風を感じて、それで『怖い!』と思った瞬間に、
バーンって戻ったんです。
何かとり憑かれた、と思ったから、もう怖かったです。」
国分「これは『もどき』じゃないですよね。」

美輪「いつ頃ですか?」
西城「24ぐらいですね、ちょうど『YOUNG MAN』が出るちょっと前ですね。
手を見ると、汗なのか、何か金の汗みたいな、何か光っているんですよ。」
美輪「金粉が出たのは、覚醒して、起きてからですか?」
西城「金粉は幽体離脱が始まる前です。」
江原「西城さんほど、ある意味でスピリチュアルな方はいらっしゃらないんですよ。
だって人生をずっとさかのぼって今日まで、本当に奇跡の連続みたいな方だから。
肌身でスピリチュアルを感じる方だと思うんですよ。
何かこれは、自分だけの世界、自分だけの意図じゃないなっていういろんなことが。」
西城「そうですね、そうだと思います。」
江原「ひと言で言うと、すごく強運な方、守られている。」

国分「お父さんがジャズをやっていたんですか?」
西城「やっていたというよりは、趣味で好きだったんですね。
そんなに上手くなかったんでしょうけれど、ジャズギターのギブソンの クラシックギターがあったんですよ。
それをポロポロ鳴らしていたら、『どこか音楽学校でも行くか?』というので、
小学校3年のときに ジャズスクールというところに。
普通の子は、塾に行くじゃないですか。
兄はピアノで、僕はギターで行かせてくれたので、習ったらはまっちゃって。」
国分「じゃあ自然と、夢というのはミュージシャンになることが…。」
西城「小学校の時からロンドンに住むのが夢だったんですね。
ビートルズが現れて、六年生ぐらいになってくるとビートルズに憧れて、
訳も分からず、向こうで、音楽でごはんが食べれればいいや、と。
『いいや』なんて失礼だけれど、そういう風に思ったんです。」

国分「お父さんはどうでした?そういう夢を持っている。」
西城「その頃は言っていませんから。
高校に入って、初めてスカウトされたときに、ちょっと音楽の道にいってみたいんだけど、 と言ったら、もうバッシング。
『お前は、音楽で食っていけるのか!』みたいなひどいことを言われました。
要するに『そういうことで生きていけないよ。』『そんなに軽いもんじゃないよ。』 と言われてから、家から出してくれなかったです。
それで半分、家出みたいな形で僕は上京しました。」

国分「お父さんはずっと、反対しっぱなしなんですか?」
西城「とりあえずヒットして、みんなにキャーキャー言われても、頑として反対でしたね。
帰って来いと。
ただ、後からわかったことは、誰よりも先に、学校の周りにポスターを貼ったりとか 応援はしてくれてたみたいですけど。

里帰りするとファンの方が来るじゃないですか。
何千人と家の前に来ちゃったら、うちの両親はかわいそうだから、
『みんなにおにぎりを作ってやりなさい』っておにぎりを渡したくらいですから。
『そんなことしないでくれ』ってそれでケンカになっちゃうくらい。」
美輪「目の中に入れても痛くないほど、愛していらしたのね。
溺愛なんだけど、それが溺愛にならないように自分でコントロールして 昔風な親御さんで。
つまり、儒教(孔子の教えを中心とする思想)というのが あったじゃないですか。
そういう風な親の愛し方ですよ。
そういうお父様でお幸せでしたね。」
西城「ええ、そうですね。」

国分「よく考えてみたら、僕の父親も反対してましたね。
13歳で事務所に合格しまして、それでいろいろやっていて。
やはり親は、父親の方は反対してましたね。」
西城「『そんなことで食べてけないだろう』って。」
国分「そういうことですよね。
『キャーキャー言われねえよ、お前は。』みたいなことを言われたのを覚えてますけれどもね。
そして一番辛かったことが、お父さんが亡くなられた時。」
西城「そうですね。
認知症になったんですよ。
だから僕が息子だということが分からなくて『ヒデキ』なんですよ。
西城秀樹のファンなんですよ、父親は。
もう亡くなるだろうなとわかって、最後に初めて、ディナーショーに 看護婦さんと来たんですよ。
僕も『多分、来年あたりに死んじゃうな…』と思って本当に泣いちゃって大変だったんだけど。
その時に、病院に戻るのでエレベーターが閉まる前に『秀樹、結婚しないのか?』って 聞いて
カチャってドアが閉まっちゃったんです。
今はもう結婚して、子供も3人いるので、話がしたかったなって、すごく思いますよね。」
国分「その言葉は、息子に言っている言葉では…。」
西城「違うんです、西城秀樹のファンなんです。
認知症になっているから、兄の名前も覚えていないんだけど、
西城秀樹の『ヒデキ』は覚えている。
もう、ヒデキとして応援しているんですよ。」

国分「立ち会えたんですか?」
西城「それがそのとき、『寺内貫太郎一家』という舞台をやっていて
その千秋楽のパーティに出る予定だったんですけど、電話があって
『危篤だから、あんた来られる?』というので、
一応みんなに『ごめんなさい、ちょっと実家の方に行きます。』と。

実家の方に行って、約30分ですね、目はつぶっていましたけれども
『お父さん、来たよ、左手上がる?』と言ったら、ちゃんと上がっていましたから
来たことはわかっているんです。」
国分「そこでは言葉は何もなかったんですか?」
西城「そうです。
医者が言うには『秀樹さんを、ずっと待っていらっしゃった』と。
僕は、行くとは言っていないんですけど、痛み止めをしないで
待っていたらしいんですよね。
だから、会いたかったんだな、という感じはしましたね。」

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