田中義剛

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【 2008年10月25日放送】【136回】パート2

今日のゲストは、タレントで酪農家、花畑牧場を経営されている田中義剛さん。

パート1からの続きです♪

[牧場を作るため芸能界へ]
国分「どんなオーディション、歌手のオーディションってことですか?」
田中「ええ、歌のオーディションで受けたんですけど、しゃべりで合格したんです。
歌は落ちたんですよね。
で、『ラジオ番組をやらしてくれる』と札幌テレビがいってきたので、
『もうこれで牧場できる』と。
で、5分間の番組、そのタイトルが『田中義剛の酪農根性』という番組で、
『深夜5分間、牛の話だけしてくれ』って言うんです。
美輪「ははは。」
田中「スポンサーは農協で、深夜5分間だけ牛の話をしていたら、視聴者から 『気持ちが悪い』って言われて。」
国分「『深夜に牛の話をされても…。』みたいな。」
田中「3ヶ月で終わったんですよ。でもやらなくちゃいけないわけですよ、俺は。
そういう繰り返しです、もう。」

国分「東京に出て来たのは、おいくつの頃なんですか?」
田中「28。」
国分「28ですか。はあ。」
田中「で、当時、吉幾三さんの『俺ら東京さ行ぐだ』の当たる前に、
俺もすごく貧乏だったんですけど、もっと貧乏だったんですよ。何だ、この人?と思って。」
(吉幾三さん…青森県北津軽市出身 1984年『俺ら東京さ行ぐだ』が大ヒット)
国分「みんな『何だ、この人?』ですね。」
田中「青森だし、吉さんが『義剛、俺一発当ててやっからよ』って
『俺ら東京さ行ぐだ』をかけてくれたんですよね。
『♪テレビもねえ ラジオもねえ 車もそれほど走ってねえ…』
これが、ねぶた祭りの♪ラッセラー ラッセラーって、青森県の心に響くわけですよ。
『吉さん、これ売れるよ』っていって。
本当に売れて、いきなりあの人も大金持ちになったわけですよ。
で、吉さんが俺に言ったの。
『いつでも東京さ来い、俺が全部面倒みる』と。
で、辞めて全部、行ったんですよ、東京。
そうしたら『お前、本当に来たのか。』と。
『俺、“雪国”で忙しいんだ。』って地方巡業へ行っちゃたんですよ。
『はあ?』ですよ。
(みんな笑い。)
それで必死に自分で事務所を探したんですよ、帰れないですから、もう。
それで見つけたのが、今の『モーニング娘。』の事務所ですけど、
それがまた、小っちゃい事務所でね。」
国分「そうなんですか。」
美輪「その頃はね。」

田中「その社長と出会って『頼むから入れてくれ。帰れない』と。
『わかった、まず入れ。』と。
先輩は堀内孝雄さんしかいなくて、誰も売れていなかったんですよね。
そうしたら何か今、大きくなっちゃって。」

~牧場の資金を稼ぐには、吉幾三さんのようにヒット曲を出すしかない。
そう思って上京した義剛さん。歌手としてデビューしましたが、さっぱり売れず。
タレントとしてバラエティ番組で活躍するようになったものの、
牧場への夢は遠く、満たされない毎日が続くのです~

田中「自分で不思議なのは、芸能界にはいりまして、レギュラーを10何本やっていて…。やってたんですけど、心ここにあらずで、
『いつか終わる、絶対終わる、こんなわけねえ。』とずっと思ってたんですよ。
そんな時に、そのまんま東君、東国原知事が同じ歳で、よく彼と話していたんですけど…
『俺ら、違うよね。ずっと芸能界にいるタイプじゃないよね。』ってずっと言っていたんですよ。」
国分「あ、東知事も言ってたんですか?」
田中「酒飲むたびに、『いつか芸能界辞めて、俺何かやってやる。』みたいな。
そんなことばっかり言ってたんですよ。俺も、もう辞めるだけの準備だけしてたんですよ。」

~いつかは芸能界を飛び出し、別の道を進もうと語り合った2人。義剛さんは東国原さんから大きな刺激を受けたそうです~

*:.。.:*☆*.。.:*

東国原知事の話
「『マラソンって、何がおもしろいんだ?』って言うんですよ。
『だったら、俺と一緒に皇居走れ』って皇居を走ったんですよ。
そうしたら2キロ、ついてこれたかなあ。
それで『俺もちょっと生活を改めて夢に向かって邁進しよう』とかいう
一大決心をしたみたいですよ。走っている時に。
私はそんな感じは全然なかったですけど…

この歳になるとね、なかなか…感動が薄れてくるし、感動に出会えないから、
そういったものを『熱い心を持っていようよ』っていうメッセージだったんですけど。
それが彼の夢、牧場の夢に火を付けた。
ますます火を付けたということだったと 彼は言っていました。私は全然、考えなく…
『ただ皇居を走りたかった』っていうだけで、はい。」

*:.。.:*☆*.。.:*

~東さんに刺激され、夢を取り戻した義剛さん。
1994年、事務所から借金をして北海道に7万坪の土地を購入。
念願の牧場経営に乗り出したものの、本当の苦労はそこからでした。
義剛さんは現実の厳しさを身を持って知ることになります。
働けども、増えるのは赤字ばかり。
結局4臆円もの借金を背負うことになります~

[10年赤字]
国分「2億どころの話じゃないですね、フタを開けると…。」
田中「ひどかったですね。10年、ずっと赤字だったんですよ。
本当にあの、語るともう辛くて…『辞めよう』と思ったんですよ。
うちの家族、子供3人、かみさんがいて、3億くらい赤字になったときに、
さすがに言えないですよ。言えないよ…。」
国分「それは驚きますよね。」
田中「3億?ええ?でしょ?うちの親父とお袋も、
1人っ子なもので 青森から呼んだんですね。」
国分「北海道にってことですか?」
田中「はい、呼んで。家族5人いて、もう逃げられないじゃないですか。」
国分「5人いて、借金は3億…。はい。」
田中「3億。で、すればするほど赤字。稼ぐためには東京に行って、やはり出稼ぎですよ。
テレビの仕事をするしかない。そのバランスでもう、ちょっとおかしくなっちゃってね。
プレッシャーで。いやもう、どうしようかな…と。」
美輪「事業の方のね、採算だとか、いろんな製造とかのいろんなものを 常に考えなくちゃいけないしね。」
田中「そうですね。最後、大逆転でやったチーズもカビだらけで、全部、返品になってね。」
国分「それで夢で『カビに襲われる夢を見る』と…。」
田中「そうなんです。もう、今でも『カビ』って聞いただけで、もうダメなんです。」

~4億もの赤字を抱え、何度もやめようと思った牧場経営。
その窮地を救ったのは、義剛さんの情熱とアイデアでした。
ひょうたん型のチーズ『カチョカヴァロ』はヒット商品となり、
さらに、チーズを作ったときに残る『ホエー』という液体を廃棄せずに豚の餌に利用して
『ホエー豚酪農』をはじめ、
おが屑と微生物を利用したバイオベッドを養豚場に敷き詰め、
ふん尿処理と暖房設備のいらない清潔な豚舎をつくるなど、
新しいアイデアを次々に実現。
観光客の集まる牧場を作り上げたのです。~

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~牧場のスタッフに聞いてみると…
花畑牧場 製造部 部長 松永和志さんのお話
「ちゃんとした商品を作るための工程をもっとしっかりと研究しろ、と。
すごく厳しかったですね。」
(松永さんが親友の大坂昭則さんに似てる、と美輪さん。)

かつて花畑牧場で働いていた里田まいさんのお話
「厳しかったですよ、やっぱり、プロとして動物に携わって牧場をやっている以上
牧場関係の仕事に関してはすごく厳しかったです。
厳しいというのは すごく愛情を持っていないとできないことだと思っているので
そういう意味では厳しさが6で、優しさが5…。」
(田中「たして11じゃないか。」
国分「ははは。」)

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~情熱とアイデアで乗り切った赤字。
ついに話題のヒット商品が完成します。
行列ができるほど人気の「生キャラメル。」が誕生したのです。
親友の代わりに果たした夢。
今や年商50億円に成長するほどの牧場を経営する義剛さん。
その成功の影に、あるスタッフの方との不思議な絆がありました。~

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