義家弘介

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【 2008年01月26日放送】【115】パート1

今日のゲストは、不良少年から教師に、そして参議院議員として活躍のヤンキー先生こと義家弘介(よしいえ ひろゆき)さん。

人生の黒板

~手の付けられない不良少年が
熱血教師、そして政治家に
参議院議員・義家弘介(よしいえひろゆき)

[今一番聞きたい事は?]
義家「自分自身、いろんな、こう悲惨な経験も。
それからしんどい試練も経験して来たんですけども。
必ず苦しんでる時に誰かが助けてくれる。
これはもう絶対なんですよね。
それは、何に自分は守られているんだろう?って。」

ヤンキー先生を守る不思議な力が明らかに~

~義家弘介さん。これからスピリチュアル・チェックを始めます~

【義家弘介 スピリチュアル・チェック】
自分の性格をひと言で⇒短気ですがデリケート
好きな景色⇒好きな景色というか、安心する景色は テレビで見るお盆とか正月の交通渋滞。
「今の世の中、駄目だ。」と言うけれど 父ちゃんは休みの日にこんなに頑張っている、
故郷、田舎に帰っている。
その景色を見ると、殺伐とした中でほっとする。でも自分は当事者になりたくない
人生の転機⇒最も大きな転機は大学四年生の頃に オートバイの交通事故で 意識不明の重体になったこと
その日から今の人生が始まったと感じています
最近気になること⇒想像力がどこへ行ってしまったのか
例えば、いじめ問題も「こんなことをしたら、こんな結果になる。」「殴ったら、痛い。」 「殴られたら、痛い。」
こういう当たり前の想像力が消えてしまったのかなと、すごく気になります

[江原さん、美輪さんについて]
義家さんは江原さんとは何度かお仕事を一緒にしているそうです。
そして、とても尊敬しているとのこと。
義家「教育って熱だと思うんですが 自分の熱が火炎放射器のような熱だとしたら、 江原さんはあったかい熱。
それは自分にないものだし、すごく尊敬するんですよね。
これは自分自身もそうなんですが 誰かの悩みに本気で共鳴しようとすると、 傷を共有してしまってぼろぼろになるんですよね。
『そういう時、傷つきませんか?』と聞いたら、本当に柔和な笑顔で『傷つきます』。
そう言われた時に『あ、この人ってすごいな。』と本当に心から思いました。」

~1971年3月31日長野生まれ。
生後間もなく両親が離婚。祖父母に育てられた義家さん
父親との関係が上手く行かず、中学時代に不良となり 高校を中退。
実家からは勘当されました~

~そして行き場のなくなった彼を受け入れてくれたのは北海道の北星学園・余市高校でした

全国から学校を中退した生徒達を受け入れる高校で担任の安達先生との出会いが 義家さんの人生を変えました
無事、高校を卒業し、弁護士を目指して大学に進学
しかし・・・大学4年の時バイクで事故を起こし内臓破裂の重症で入院
その時、北海道から駆けつけてくれた安達先生。 義家さんの心に教育への情熱が 芽生えた瞬間でした
重症の義家さんの手を取って死なないで、あなたは私の夢だから、夢なんだから、と先生~

  

[人生の転機 オートバイ事故]
人生の転機というのが大学4年生に頃におこしたバイク事故<。br /> 事故は自損事故で相手はおらず、現場に行くと緩やかなカーブの道なので、
なぜこんな所で事故を起こしたのかという感じ。
そこで転倒して、民家の石塀にお腹からぶつかり、
退院してから警察の現場検証に 行っても全く覚えていないそうです。
事故を起こす前の自分の心とか気持ちはどのようだったのかというと 口癖のように 『絶対、天下獲ってやる』と言っていたそうです。
『こんな時代のど真ん中で、今度は噛み付いて生きてやる』 『俺が絶対に、 噛みついて勝ってやる』という思いだったそうですが 事故をきっかけに考え方が 全く変わったそうです。

考え方が変わったきっかけは担任の先生の「あなたは私の夢だから。」という言葉。
公然と口で『夢だ』なんて言われることはあまりないわけですが、
意識が消えそうな中で聞いたからこそ余計に衝撃を受けたとのこと。
自分自身、母親を知らないのだけど、彼女が本当の母に感じたそうです。
すごくあったかく感じて生まれて初めて、心の底から『生きたい』って思ったそうです。
『いつどうなってもいい』と思っていたのが、本当に心の底から 『生きたい』と、思えた瞬間だったそうです。
そして、司法試験を受けようと思っていたのに、教師になろうと思ったのも入院中です。
それは、『自分がどんなに望んでも、自分はこの人の子どもではない。
だったら、この人が歩いてきた教育という名の道の続きを歩いていこう。』と 思ったそうです。
そして『今はひどい世の中だから、たくさん傷ついたり 涙したりする奴らがいる。
だったら、その連中に寄り添いながら生きていこう。』
『時代に噛み付きながら生きていくのではなくて、そいつらに寄り添いながら生きていこう。』
と自然に思ったそうです。

[学生時代]
義家さんの学生のころはどんな学生だったのかというと、学生時代は自己主張だけの 愚かな存在で、何か失敗するといつも人のせいにしていたそうです。
『あいつが悪い』『親が悪い』 『生きてる』なんておこがましく思っていたけれど、 事故のときに 『生かされている』と初めて、心から思えたそうです。

国分「この事故も、やはりきっかけなわけですかね。」
江原「それ自体がカリキュラムということがあるわけですよ。
生まれ変わりをさせられたんですね。それまでの人生に終止符、
だからそこからの人生が、まるで変わっているはずなんですよ。」
義家「全く違うんですよね。」
江原「ただ、『それまでの人生、何でも人のせい。』といっていたけど、それはうそ。
そういう風に表面では言っていただけで自分で自分のことをいつも許せなかった。
自分が嫌いだった。いつも自分を責めていた。『俺なんか…』
例えば、どんなに点数が良くても 『認めたくない、自分は最低。』というところで、その心を実は殺されたんですよ、事故で。
あの事故で、その心の方をいったん死なせたんです。」
義家「本当にそうでした。自分をずっと責め続けていました。
やはりある程度の年齢になると、生まれてすぐ離婚するということは、
『俺が生まれる前から離婚は決まっていた、話し合っていたんじゃないか。
だったら望まれないで生まれてきた存在じゃないか。
だったらそんな人間、いつ死んでもいいし…』って、
自分を責め続けることで 自分の存在の足元を確かめていたというものが、 あったと思います。」
美輪「自分の弱さとか、悲しみとか、そういうものを見るのが怖かったのね。」
江原「ある意味で、こんなにムダのない人生の方って珍しいなと思うんです
全部、課題通りに生きてこられた、魂においてはすごく優等生。」
国分「事故なんてない方がいいですけれども、
義家さんにとっては本当に、いい事故だったわけですよね。」
江原「人生にはそういうことはいっぱいあります。」

義家「不思議なのは、後遺症が全くないんですよ。
あれだけ内臓がダメになったのに 実はお酒も飲めるんですよ、ごはんも食べられる。
胃はかなり取ったけれど、また大きくなっていますからね。
不思議でしかたがなかった。」
美輪「だから、区切りがついたの。小学校を卒業したんです。
そこから中学校に入ったという感じ。」
江原「こんなに優等生なのは、天から可愛がられている人ですよね。
天から愛されているというのはある意味では波乱万丈ですよ。」
国分「なるほど。」

~1999年、教師となった義家さん。
自分の不良体験と不良達を指導した経験がベストセラーを生み、
“ヤンキー先生”としてマスコミにも登場するようになります

ラジオ番組を始めると全国の子ども達から深刻な悩みが寄せられました。
子ども達の抱える問題の大きさを知り、
教育改革への思いは、ますます強くなって行きました~

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