山口達也
【 2008年07月26日放送】【130回】パート2
今日のゲストは、太一くんと同じくTOKIOのメンバーであり、2008年3月に結婚し、お子さんにも恵まれた山口達也さん。
パート1からの続きです♪
[散ってしまった平家派]
国分「昔、僕と山口くんは違うグループに入っていまして 『光GENJI』の源氏に対抗して、『平家派』っていうグループがあったんですけれども、見事に散ってしまいまして、その平家は。」
美輪「平家は壇ノ浦で散っちゃったもの。」
国分「そうですね。」
山口「あっという間に、短い活動でしたね。」
国分「短い活動でしたね。そこでも僕らは、一回挫折を覚えるわけですよ。
もう無理じゃないか、デビューできないんじゃないかな、っていうような。」
山口「そこに井ノ原も坂本もいたしね。」
国分「いま考えると、そこにいるのがV6の長野くんと坂本くんとイノッチと
TOKIOからリーダーと山口くんと僕なんですよ。」
山口「だってもう、その時点でSMAPがデビューしてるのにさあ、
SMAPより平均年齢、高くなっていた。
どこかのグループがデビューすると、ジュニアが『入れなかったから』っていって、
ゴソゴソって辞めていって。 それでまた、入れ替えみたいなのがあって。」
国分「その当時、本当にそうなんですよ。
新しいグループがデビューするとなると、今までがんばっていた同期の人間とかが『もう僕らはデビューできないんだ。』といって辞めちゃったりすることが多いんですよ。
僕らもどんどん、ジュニアの中でもベテランになってきて、
そうするとベテランの人たちの口癖っていうのが『もう終わった』っていう。」
山口「『あ~終わったな』」
国分「『終わったな』っていうのを、必ず誰かしらが言っていたんですよ、
レッスンがあったりとかすると。」
山口「不安だらけだったよね。」
国分「不安だらけでした、本当に。
さきほども言いましたけれども 『平家派』が
一回、終わってしまったので『もう、どうしよう、どうする?』みたいな。」
山口「あるからね。」
国分「でも山口くんは高校生ということもあって、
ジャニーズ事務所に入りながら アルバイトをしていたり。」
山口「やっていましたね。
いろいろ高校を卒業するまでガソリンスタンドで働いていたんですけど。
でも仕事は1年に一回のミュージカルの仕事しかないので やはり18歳で仕事もしないって、
やはり働いていないと、と思って。
カメラ屋さんをまわるんですよ。
フィルム集配の仕事をやったりしながら、レッスンを受けて、その時にはもう、
うちの城島が奈良から東京に来てたので、 夜はリーダーのところに行って楽器の練習をして。
夜中はずっと楽器の練習をして、朝はネクタイを締めてまた仕事に行くみたいな。」
美輪「えらいわね。」
山口「そういう仕事をやっていましたね。」
国分「合宿所時代だったんですけれども、合宿所で朝、山口くんだけはスーツを着て
『じゃあ、行ってくるね』と言ってお仕事に、フィルムを集めに行って
それで帰ってくるという生活をずっとしていたんですよね。
山口くんは本当に貧乏だったので、冷蔵庫もない家で。」
山口「ボールに氷を入れて、そこでジュースを冷やしたりとか、電気も止められたこともあるし。大変でしたね。
やはりバイトしないと生活できないし 親から出してもらうような歳じゃないですし、
もう18だから。」
国分「先輩達がコマーシャルをやると、そのインスタントラーメンとかが
結構あったりするんですよ。
それを貰って、お金がなかったのでご飯をそれにしたりとか…。」
~1990年にようやくTOKIOが誕生。
ところが歌手としてデビューするまでには それから4年もの月日がかかったのです~
美輪「それで楽器の分担は誰が決めたの。」
山口「もうそれ以前に、先輩のバックとかでそれぞれの担当でやっていたので。」
美輪「それは自分で好きな楽器を選べるの。」
山口「事務所に入る前からやっていたし、リーダーもギターをやっていたり。」
美輪「あなたは?」
国分「僕はベースをやっていたんですけれど、TOKIOって昔、その当時
『ダンスTOKIO』と『バンドTOKIO』って分かれていたんですよ。
『ダンスTOKIO』では違うメンバーも入っていたりして 山口くんとリーダーは
『バンドTOKIO』だったんですよ。
それがいつの間にか合体するようになって、松岡はドラムもちょっと練習したりとか、
僕は僕で、山口くんがベースをやっていたので。」
山口「じゃあピアノはピアノでやっていたんだ。」
国分「その後、やり始めて、生き残るために何かやりたい、と思って
鍵盤を覚えようと思って、で、まあ結成に至った。」
山口「そうですね。」
[TOKIOデビュー]
国分「デビューするっていう時のこと、覚えていますか。」
山口「事務所に呼ばれたんだよね。」
国分「はい。事務所に呼ばれて。」
山口「いまの5人が呼ばれるわけですよ。」
国分「『何で呼ばれているんだろう?もしかしたらこれ本当に終わっちゃうんじゃないの?』って。まさかデビューだって思っていないんで、そうしたらね。」
山口「そうしたらね『○月○日に、デビューします』と。」
国分「『本当に時間、かかったね。良かったね』という話をしていたら うちのリーダーが事務所の偉い人に『で、契約の方はどうなっているんでしょうか?』
ものすごく現実的なことをいって、『もっと喜んでもらいたいのに』って思ったんですけれども 、
まさかのリアクションなので、事務所の人も困っていましたから。」
美輪「面白いわね。」
山口「でも何となくみんな『うわぁ』といった感じじゃなかったよね?
『ああ、そうですか』みたいな。」
国分「そうなんですよ。」
山口「何でだろう。」
美輪「『果たしてそれで、上手くいくかどうか』っていうものがあったんじゃない。」
国分「っていうのもあったんだと思います。」
山口「CDを本当に出してみて、初めて『やっと土俵の上にのった』というか
『こんな狭いレベルで闘っていて、そうじゃなかった、みたいな。
それこそ、うちの事務所以外の人たちと闘わなきゃいけないということにハッと気づいて
そこからもやっぱり大変だったよね。」
国分「大変でしたね。」
山口「喜んでいる場合じゃなかったね。」
国分「スタートが僕ら、あまり良くなかったんですよ。
CDの売れ方とかが、もっと自分たちが想像している枚数が出るのかなと思ったんですけれど。」
山口「そうだね、先輩を見てきたから。」
国分「はい。全然、そうじゃなかったんですよね。」
美輪「だけどね、今の話を聞いている全国の若い人たち、いま簡単にスターになれるとか
ジャニーズに入れるとか、ものすごくイージーに、簡単に考えている人がいるじゃないですか。
だから今のような話はね、そういう風に考えている若い、全国の人たちにとっても
良い参考になると思いますよ。
世の中、なめちゃいけないってことで、厳しいってことが。」
国分「でも、1位を取ったときっていうのは、本当嬉しかったですよね。
今までのアイドルって、デビュー曲で1位とか、結構すぐ1位を取っていたと思うんですよ、うちの事務所っていうのは。」
美輪「だから、黒があれば白の白さがね、ほんのささやかな幸せでもね。
うんと苦しんだ人はね、ほんのちっぽけなものが来ても 『わぁ幸せ!』って味わえるのよ。
ありがたみがあるの。
だけど、そんな苦労を知らない人っていうのはね、こんなに大きい幸せが来ても
『え?こんなものなの?』と思っちゃうのね。
だから、返ってそれは 若い頃の苦労はね、お金を払ってもしろというのと同じで、
お幸せだったかもしれないわね。」
国分「そうですね。」
山口「衣装もなかったもんね。」
国分「衣装もなかった。」
山口「いまは、もう用意していただいたりとかしているけれども
番組に出るのに自分で上下をそろえて、お金ないから、来週の出演、どうしようか?
といったときに、袖を落としてみたり 自分で描いてみたり、そういうのでやっていましたから。」
~1994年に「LOVE YOU ONLY。」でデビューするも、オリコンでは最高3位。
2001年の「メッセージ。」で初めて1位になったのは 結成から11年、
デビューから7年後のことだったそうです~
[TOKIOのメンバーは職人気質]
国分「この5人が集まったっていうのは、やはり意味があるわけですよね。」
江原「ありますね、やっぱり。」
国分「全然違うところから、全然知らない人が一緒にこうやって、チームになって
グループになってやるっていうことですものね。
これはやはり、上の関係なんですか。」
江原「という場合もあるしね、いろいろなパターンがあると思うんですよ。
例えばその魂の繋がりね、前世、なんていうような繋がりがあるとかっていう場合もあるし
私が見る限りは、このTOKIOというグループは『波長の法則』ってよく言うんだけれども
類は友を呼ぶで、それぞれの持っている要素が、実はとてもよく似ているんですよ。
それで引き合ったという感じで、その深い意味はまた後で話しますけれども。」
国分「うわ、俺も今日、ゲストになった気分。」
山口「そうだよね。」
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